021.剣


「剣〜冬雷のつるぎ〜」








剣。

光の筋が目の前で幾多にも分かれ、襲ってきた。

併せ合い鍔で受け止め、弾くとその勢いのまま後ろへと下がった。崩れそうになる体を、腰を落として脚の指で地を掴み、踏み止ませる。

ふっと足が軽くなり、親指が土に入り込んだ。草履の鼻緒が切れていた。肩で息をしながら、私は後ろに放るようにして草履を脱いだ。

男も、同じようにして息を吐いていた。ただ草履は無事なようだ。履き替える間もない。歩いている間に、突然襲われたのだった。


ゆっくりと近づき合い、少し湿った土と草が足に馴染むのを待たずに、三歩の間だを保って再び構え合った。男は隙の少ない整った正眼で、相正眼の形となった。だが、隙はある。

風に袴の裾が揺れる。誘われたように、私の剣が揺れた。揺れただけだ。男は、にやりと笑った。

思わず斬り込みたくなるような隙だが、そこに向かって踏み出せばたちまち此方の体が切り刻まれる事になるだろう。つまり罠だった。


刃を競り合う力は余り強くない。先の鍔迫り合いは、私が振り回した格好だったのだ。

それより速さ。尋常ではなく、まるきり見えなかった。弾けたのは勘のような物だ。しかし、競り合えば。その為にも慌てぬ事だ。


日が、幾重も重なって刃を照らしていた。文月(七月)の昼過ぎの熱さの中、木々に囲まれた郊外に、けれど蝉の声は響かなかった。

音に変わって、凛とした空気が張りつめている。甲に浮いた汗が風に流れた。林は囁いてもいない。

勝てるかどうか微妙なところだ。しかし、勝つ道はある。そう思わなければ向き合う事は出来ない。勝機は、必ずあるのだ。


立合は、そこから長かった。時々、誘うように奴の剣先が僅かに落ちる。その度に、私は自分を叱咤した。

気を抜くことは出来ない。雨戸から落ちる水滴のようにそれを見詰めれば、一瞬で振れた剣が気合いに満ち、そのまま私の首は飛んでいるだろう事は分かっているからだ。

私の方から誘いはかけなかった。技術では、奴が上だろう。技術で上回る敵を倒すには、じっと耐えることだ。そして、勝機を逃さぬ鋭さを保つことだ。


風の匂いが鼻を突いた。もはや夕日の中で、剣が金色にも似た鈍い光を放っている。それに霞み、奴の姿がまるで 剣に潜む影のように見えた。

すっと、僅かに残っていた隙が消える。剣の影に、男の体が隠れたようにさえ見えた。

奴も限界が近いのだろう。潮合。そろそろ満ちて来たと言うことが肌で分かった。肉を断つ刃の澄んだ音が、私の背に蘇ってきた。


既に、籠めるべき気を残されていなかった。同じく、この身に打ってくる物も無い。

ただ空気が重い。剣も重い。毎日半日は振るっている剣だ。これしき、何だというのか。

なのに、剣先を見えぬ何かに押さえつけられているように、重い。

兄たちと向き合うとき、強者と向き合ったとき私の剣はいつもこうなった。それでも、私は勝ってきた。

男も、同じように重い筈なのだ。


汗。風。刃。土。金色の光、風に踊る葉。

爆発するように、何かが弾けた。


奴の踏み込み。私はなんとかそれに付いていった。速い。しかし追いつける速さだ。筋肉が軋みをたてながらも淀みなく動いていく。

奴の手が頭の前に振り上がった。一本の筋。鋭い。しかし、これならば。

思ったとき、広がるように線が増えた。突如、光が躍ったとしか思えなかった。

手が痺れ、手から重みが消えた。

一瞬幽霊でも見るように宙を舞う刀を私は見詰めた。ぞっとしたものが体を打った。


「おのれっ」


恐怖に押されたように食い掛かる私は、結局叫んだだけだった。気づいた時は、布団の中で汗にまみれていたのだ。

何処も斬られておらず、何処も刺されていない。

首筋に、蚯蚓(ミミズ)のような青痣があった。返した刀の反りで、動脈を打たれたのだと直ぐに分かった。

情けを、かけられたのか。殺される前に、助けが来たのか。

どちらにしろ、屈辱だった。だが、あの剣の動きを思い出すと、それだけで手に汗が滲んだ。


一本だった剣の筋が、目の前でぶわっと広がるのだ。どうしてあんな事が出来るのか。

私の勝てる相手では無かった。ただそれだけが、はっきりと分かった。

いかにも遅すぎる。負けた後なのだ。


拳を握る。打たれた手首が、力を入れた事で激しく己を訴えた。


それが、とにかく憎らしかった。







正眼に構えた剣を少し右寄りに振り上げ、振り下ろすとそのまま袈裟に返した。

巻き藁が三つに割れていく。それはそのまま、滑るようにして土の上へと落ちた。それだけの事だった。

巻き藁を横に斬るのは案外難しく、誰にも出来る事ではない。それでも、それだけの事だ。


私は剣を鞘に収めると大きく息を付いた。尻を落とそうとする膝を、ただ叱咤した。腕はただ重い。

朝から初めてもう昼下がりで、今までからは到底考えられない事だった。周囲には切り捨てた百を超える様々な物が散っていた。

それも、もう二週間は続けている。丁度、奴と立ち合った次の日からだ。

負けてから、何かが違う。何かが足りない、焦燥感にも似た思いは日に日に膨れていっていた。


ふらりと、風に飛ばされて落ちてくる葉が見えた。まだ青々としている。それだけを見たとき、葉は元からそうであったようにすっと三つに別れて地面に落ちていった。

それでも、やはりそれだけの事だ。

こんな事が出来ようと出来まいと、立ち合いで勝てなければ曲芸と何ら変わりはない。自嘲のような思いで、私は三つに割れて地に落ちた葉を見つめた。


刀を鞘に収めると、ちん、という歯切れの良い音がした。風は、もう悪戯に飽きたようだ。それとも、不意をつこうと息を潜めているのか。それは抜き撃ちの訓練となる。そう思いながらも、私は軽く息を吐きゴツゴツと皮の擦り剥けた手を見詰めた。


ぽっかりと、何かが抜け落ちている気がした。気付けば、剣を振るっているのだ。

負けた。完膚なきまでに負けた。負けた事が無いわけではない。しかし、手も足も出なかった。

対峙している空気の中で浮かんでくるのは、奴の姿。奴の剣気。

それだけで、全身にじわりと汗が噴出した。


その闇にも似た立会いの中で剣だけが別の物のように重く、耐え切れず剣先が下がると、私はもう思わず飛び退いていた。

斬られる。その思いが、巨大な波のようになって襲ってくる。その時には、何時も漆喰の着物が搾れるほど 汗が流れていた。

思い描いただけで、これだ。勝てるはずも無い。心底、そう思えた。


しかし、剣は何処かで奴を望んでいる。

自分より強い男。思えば久しぶりだ。それも、あれほどまでに強い。

天が与えた機会。そうとさえ思えた。


だからか、胸に空いた穴が余計に私を煩わせた。たまらなく落ち着かない。

剣を振る以外、私にはそれを忘れる方法が無かった。

それで、また振る。しかし振れば振るほど、終わった後に来るぽっかりとした喪失感は強くなっていた。

それで、剣を降らない間は酒を飲んだ。どいういう訳か、私は幾ら飲んでも酔ったという気がしなくなっていた。

頭が重くなり、自然と瞼が降りてきてもむしろ頭の中は冴え、鮮明に奴との立ち合いを何度も何度も繰り返していた。

飲むのは何時も民家を少し大きくしたような居酒屋で、ここなら知人に会う事も無いだろう。そして、館へ帰り酒毒を体から捻り出すようにまた剣を振る。

夜も更け、周囲が闇に隠されて閉じる頃になると、ふっとなにかに意識を奪われたように体は眠りの中へ落ちていった。 ここ二週間、ただそれだけを続けている。

首筋の怪我は、二日もすれば痛みも感じなくなった。ただ、時々まるで意思を持っているかのように疼き、お前は情けで生かされているのだと、そう訴え続けていた。


館から町まではそう離れていない。町から見える小さな小山。その真ん中らへんに、ぽつんとこの館が建っていた。

剣道場など気の利いた物はなく、だから私は何時もこの館の裏庭で剣を振っている。

一刻もたたずに、町へは降りられる。

それは降りると言うより下りると言った感じで、町と共に開かれた山道も幾らもしないうちに視界が開け、 木々の代わりに幾らかの人とごろごろと建っている家々へと変わった。


金銭に困った事は無かった。父が代々の領主で、今は一番上の兄が後を継いでいる。

私は、そこの三男だった。望むままとはいかないまでも、水で薄められたたいして美味くもない酒を飲む程度には全く不足はなかった。

店主に言えば、薄められていない酒も出てくるだろう。それだけの金は払ってある。

最も、ここでは普通の酒が薄められた酒として出てくるのだ。そうやって少しでも利を上げようとする居酒屋だが、私はどうにも嫌いになれなかった。

病弱の、娘が一人いるからかもしれない。だからと言って、薬代に困っている様子は無い。

店主の顔にはいつも不躾な皺だけが浮かんでいて、その中で物憂げに中を見つめている眼にどこか惹かれた。

何時も酒の入った瓢箪をぶら下げているくせに、酒に酔った様子は一度も見たことが無い。頭の頂上が奇麗に禿げていて、ぼさぼさの髭と対照的だった。


店の中は小汚く、座敷が一つと三つの机と木の椅子が適当に置かれているような店だった。

常連の顔を覚えるほどに来ても、親父は手酌の一つしなかった。いつもめんどくさそうに机の上に徳利とお猪口を置くだけである。

肴は、頼まない限り出てこない。ただ、釣りが趣味なのか出てくる干物や焼き魚は店に似合わぬ味だった。

特に手の指ほどの小魚が秀逸で、私はいつも箸などを使わず頭から丸齧りにした。品こそないが、上手いと、それは素直に思えた。


品や礼儀や作法は生まれた頃から躾られたが、三男という事でかなりの自由が許された。

というより、無関心だったと言って良いかもしれない。唯一、父が剣術を指南すると言う時には辟易としている兄達に混ざり、思うさま剣を振り続けた。

私が真面目にやったと言えばそれだけだが、毎日剣を握っていてもついに父に勝てることはなかった。


三合飲み、店の親父に幾らか色を付けた銭を渡すと店を出た。親父は私が誰だか知っていて、それの口止め料も兼ねている。

最も、私がこうして酒を飲んでいるのは今や兄達所か妾や使用人まで知っていて、つまりただの気休めだった。

多く金を払っても出てくる物に代わりはなかった。もっと高級な店でも充分に足りるだけの銭だが、自分で稼いだ金ではないという、軽い嫌悪感と共に飲み下すのにはこの程度が丁度良いと思っていた。

酒を飲んでも、陽気に馴れた事は一度もなかった。それでも、どこか気は晴れる。


酔ったというより、幾らか気怠くなった体を引き摺り、落ちてきた日とは反対の方向へ歩き始めた。

本当は西へまっすぐ行けば一番近いのだが、途中、色町を通らなくてはいけない。

この時間にもなると色町も段々と活気がつき、それまで閑散としていた道々が急に目を覚ましたように人で埋まり、娼婦が付ける香の匂いが溢れる。

だからいつも東へ行き、町の外れの川辺まで風に吹かれながら歩いて家路へ付くのだ。

ちょうど、館に着く頃には酒気も抜けている。酒は飲むが、女は苦手だった。

幼少の頃、トイレに起きて父と妾の女が貪り合っているのを見たのだった。

それは正に獣が貪っていると言う感じで、それ以来、女体は嫌悪の対象にしかならなくなった。

妾が叫び、父が唸っている間中、何が怖いのかも分からず、ただ私は壁の下で蹲り耳を押さえて震えていた。

抑えようもない何かが私の中を駆けずり回っていた。それは何度も耳元で声を上げ、それを妾の嬌声が何度も掻き消した。

それでも、まるで獣に怯える兎のように震えが止まらなかった。

まだ若いからだ、という気もする。しかし度々襲ってくるようになった情欲も、私は剣を振って散らした。

倒れるまで、振り続ける。それで欲は逃げるように去っていった。それが恐怖なのかもしれない、と思い始めたのはつい最近のことだ。

それに、一晩剣を振り続けてももう倒れる事はなくなった。朝日を浴びれば、情欲など霧のように晴れていく。


西は宿場町といった作りだが、町の東側は長屋や庄屋が続く。川の臭いが風に漂ってくると漁師の家が増え、だから干した魚の鰭や網などが幾つも家に立て掛けられていた。磯の匂いは嫌いではない。これから冬にかけて締まりの良い魚が捕れるはずだ。

それは毎朝の市で売られていて、私も度々買いに行く。人の賑わいも、私は嫌いではなかった。


日々剣を振るっているだけで、私には仕事も何も無い。ただ勝手に日々を過ごしていた。

それでも、父亡きいま一族の中に剣で私に勝てる物はいなく、私の事を困った顔を見せながらも兄達が誇りに思っている事は知っていた。

兄達も、決して弱いわけではない。才ならむしろ負けているだろう。ただ、他の事に時間を取られ過ぎているのだ。

逼塞としたその思いがあるからこそ、私を羨ましい思いで誇りとしているのかもしれない。

私は、自分に才があると思った事は無かった。兄達が勉を学ぶ時間の殆どを、私は剣に費やした。

それで勝てなければ、屑という事になる。才能は無いが、自分を屑だとも思っていなかった。


いっそう磯の香りが強くなると、真新しい岩々に整地された川が北の山々から南へ走り、川の両岸には幾つもの柳の木と行燈が置かれていた。

よく目を凝らすと、薄暗くなった中に岸に上げられひっくり返された舟の姿も見える。

父は民政で民が豊かになる事に力を入れたが、治水に力も入れ、特に必ずと言って良いほど毎年氾濫した川の整地には心を傾けていた。

川を挟んだ町外れの南北には広大な農耕が広がっており、河川の反乱は甚大な被害を生むのだ。

工事をしたくとも周囲の土は脆く、まず土に紛れた小石や貝などを取り除いて踏み固める作業から始まった。

だが工期の途中で梅雨に入ると川は簡単に氾濫を起こし、杭や材木を全て押し流していったのだ。

長年の苦心が実り、堤防が完成した日には父は滅多に飲まぬ酒に手を出し、皆と別れた後もじっと一人で刀に向かっていたのだろう背を、私は厠へ起きた時に見つけた。

見てはいけない物を見てしまった気がして、私は厠へも行かずそのまま自室へと引き返し、茵の中で父の妙に涼しげだった背中を思い返していた。


剣で、領地にも父以外では私に勝てる物が居なくなった時、長兄に道場を開いてはどうだと言われた事がある。

その時は、もう少し歳を取ったらと言った。その時はまだ二十歳前で、道場主になるには如何にも早過ぎる気がしたのだ。

それに私の剣は父に教えられた物で流派という物が無く、つまり父にも流派はなかった。それも、私に道場を開く事を留まらせた。

その後も、何度か言われたがまだ早いと言って突っ撥ねてきた。

まだ早過ぎると断るなど、まるで見合いでもしているようだと次兄に笑われた事がある。

長兄は、私が何もせずにふらふらしているのを心配して、そう言って来ているのだ。

次兄は、私がそれを分っていながら断っているのを知っていて、馬鹿にしたようにそう言ったのだった。

それでも、私は腰を落ち着けるつもりはなかった。ましてや、奴が表れた。

それを待っていたのだ。今は、そうとさえ言える。


四半刻(三十分)ほど歩いて川から逸れ西へ向かうと、やがてちっぽけな小山が見える。小山を少し登ると、もう屋敷である。

町の西側は、こうして山と川に囲まれ挟まれるようにして成り立っていた。

要害で、戦を繰り返しながら自然とこういった場所に人が寄り集まり、町が作られていった。つまり、攻め難いのである。

途中、川には二つの橋がある。その橋も、父が架けた物だ。東側は世が平定されてから開いた土地で、商業地としての色が濃い。この領の政府も、東側に移っていた。

要害である事は、平和な世では栄達の妨げにしかならない。この橋を挟んだ両側の町が父の、今では長兄の領地だった。

此処まで来ると人通りは殆ど絶え、代わりにけたたましい程の蝉の音が私の耳を振るわせていた。まだ昼の暑さはやまず、それでも町中に比べて風は清々しかった。


大陸には道場こそ余り無いが、あれば人は集まるだろう。平和な世で、民も豊かではないが餓えてもいない。

だからこそ、少し人より強くなりたかったり、芸として学ぼうとする者は幾らでもいるのだ。

それでも他に道場が作られないのは、やはり馬鹿馬鹿しいからである。

戦争はもう数百年と無く、領民は狩猟で剣より矢を使う。

幾ら剣の腕が立っても三方から矢を射掛けられたら防げる物はそうはいない。狩で使うから、東はともかく西側の町には弓など何処にでもある。

人に師事できるほどの剣の遣い手がいないというのも、道場が出来ない理由の一つであった。だからこそ、私のような男が重宝がられる。

ただましてや、今は銃もあるのだ。飛びぬけて高価だが、逆に金さえあればこんな田舎でも人伝に手には入る。これは逆に東の方が多かった。

兄たちも、護身用に作られた小さな物をいつも懐に入れている。幾らなんでも、剣で弾は斬れない。

よしんば初弾を避ける事が出来ても、次弾、三発目と避わせる気はしなかった。最新の六道口なんたらとか言う銃は、六発まで連射できるのだ。


今年で二十も半ば、流石に自由に動けるのはもうそろそろだろうと思っていた時だった。

せめて妻帯でもしていれば。そうは思っても、女にはとんと無縁なのだ。







夕方。私はもう半刻(約一時間)近く、男と向かい合っていた。

奴ではない。身形の悪い大柄な男で、足を縺れた男と酒場で肩がぶつかった。つまり喧嘩だった。というより肩がぶつかった事でいきなり喚かれ、刀を抜いた。

言動はともかく、構えは確りとした物だった。


領民ではなく、旅をしている男だと言うのは見れば分かった。貧相な身なりで、寒さを凌ぐためかボロボロに擦れたマントを背負っている。

腰に差した剣は以外に上等な物で、構えも様になっていた。この身を打ってくる物もある。命の危険も、何度か掠りぬけた事はあるのだろう。

仕方なく、私は男の方を向きながら店の外に出た。素手であしらえる程度の腕ではない。

日はもう落ち掛けているが、人通りはまばらだった。男が追ってくるのと同時に、すっと刀を抜いた。領民は、何事かと遠回りになっているようだった。

幾人かいた止め様とした者も、男の気迫に打たれ動けないようだ。


じり、と男が草鞋(わらじ)で地面を擦った。私は今日は草履(ぞうり)である。つま先を上げ、踵を地面に押し付けるようにして片方ずつ脱いだ。

草鞋はともかく、草履は踏み込みには適さない。軽く息を吐いて柄を握りなおした。胸から洩れる息からは、僅かに酒が匂う。

しかし、男の眼は酒に濁っているようではなく、まるで獲物に喰らい付く獣のような物を宿していた。

半刻以上もの間、真剣と向き合うなど普通は出来ない。相手にしているのは、拳ではない。刃なのだ。

死は、常に皮一枚先にある。普通ではない物を、私は感じ取っていた。


何度か、男の視線が移ろうように宙に逸れた。それはおそらく誘いで、乗らなかった。

獣相手に生死を賭けてきたのであろう。構えも、何処か牙や爪を気にするかのように腕の突き出した格好となっていた。

それでも腰は引いていない。

正眼だが、何処かに今まで相手にしてきた物への仕草が出る。構えにも、癖はあるのだ。


徐々にではなく、冷え切っていた物が瞬時に膨れ上がったように潮合が訪れた。弾ける僅か前に、私が半歩踏み出した。

獣が、間違ってもしないことだ。はっとしたように、一瞬遅れて男が踏み出してくる。

その時には、私はもう踏み出した半歩の足を引き戻していた。男は、無造作に踏み込んでくる。その気合には、うっかりすると気圧される程の物があった。

再度踏み込んでの、突き。自分から刃に向かって来るようにして、踏み出していた男の喉元に剣が軽く刺さった。流石に、男の体がぴたりと止まる。

血が一筋、男の冷や汗のように垂れていく。剣先を、精々数ミリという所で止めているのだ。

それも、男が体を止めていなければそのまま突き刺さっていた。

まるで頭に思い描いた絵のように、私にはそれが流れるように出来た。出来る。と確信してもいた。


その体制のまま、私は男が参ったと言うのを待っていた。男の剣は、まだ高く頭上にまで上げられているままだ。

唖然とした表情で、男は喉元の刃を見詰めていた。信じられないと言った風でもある。瞬きした程の間の勝負。剣の勝負は、それほど一瞬の出来事なのだ。

しかしそれは、獣相手でもそうだったろう。ただ、私の行動は読めなかったはずだ。獣は、殺気に素直すぎる。

堪えたり先に動いたりといった事は、まず出来ないのだ。その獣を相手にしていた分、男の剣もまた素直だった。それだけ読みやすい。


男の喉が、蚯蚓がのたうつように動いた。汗が幾筋も流れている。

このまま喉を突くことは勿論出来た。しかし、それは下策だろう。

殺すと、後が面倒だった。山伏(やまぶせ)の出る山中でならともかく、町中での斬り合いは珍しい。ましてや、酔っての喧嘩だった。

そこまでする必要は無い。

というより、なぜ剣まで抜いたのか。先に抜いたのは男の方だ。腕に自信があった、とも思える。

たしかに、素手であしらえる程度の腕でもなかった。だから私も剣を抜いた。しかし街中での殺しは、男にとっても不都合の筈だ。


再度、男の喉が蠢いた。だが、男が参ったと言って来る気配は一向に無い。

それどころか男の体に気合が満ち、頭上に上げたままの剣を剛直に振り下ろしてきた。

一瞬深く私の剣が男の喉元に突き刺さり、私は身と共に慌てて後ろへ飛び退いた。刃風が、額を僅かに掠めていく。

前髪が何本か斬られたようだ。風に飛ばされていく。私は舌打ちした。思ったより早い。思い切りも良過ぎだ。

死んでも良いと思わなければ、こんな事は無理な筈だ。現にあのまま突き殺すことも出来た。動脈を切ってから身を退くことも容易かった。

殺すのは面倒だという思いが咄嗟に私を後ろへと退かせた。男も、そこに賭けたのだろう。

ただ、殺す気は無いというのは、寸止めしたことで分かった筈だ。


流石に、男は額から汗を流し肩を上下させていた。それでも構えを解こうとはしない。瞳の中の獣は、逃げろと言っている筈だ。

それでも向かってくるのか。気圧されたように、私も固く構えを取った。酒の絡みが、何時しか真剣勝負になっていた事に私は束の間驚いた。

その隙を見逃さず、上段から振り下ろされた剣を私は横に飛んでかわし、中段に構えてから突きを放った。鈍い感触が手に伝わり、血が漏れるようにして滴った。

まだ男の体には力が漲っている。男の刀が下から掬い上げるように動いた。

だが、私がそこから下腹まで斬り下げるのに、余り時はいらなかった。ずぶりと刀が肉を喰い荒らしていく。

男の刀は、僅かに私の脇腹を切ったに止まった。そのまま、剣から抜けるようにして男が後ろへ倒れていく。

内臓も斬った所為か、強烈な臭いが鼻を突いた。男の袴で、剣の血を拭う。念入りに拭った。

傷の割に、男の体からは余り血が噴出さない。それでも、周囲にはどす黒い血溜まりが出来ていた。

誘い。見抜けぬ方が死ぬのだ。


どこからか、近くで叫び声が上がった。それは幾つにも重なって聞こえ、どこからかというのが最も合っているように思えた。

ようやく、私が人を殺したという事が周囲に知れ渡る。慌てて、見守っていた領民の何人かが走り去っていくのが見えた。


私はゆっくりと立ち上がりながら剣を鞘に収めた。

囲っている数人は私の顔を知っているだろう。直ぐに役人も飛んでくるはずだ。随分と面倒な事になった。

もう、酒を飲むことも許されまい。兄たちに禁じられるはずだ。


ただ、それ以上に手強い男だったと思った。斬った後で、初めて分かった。やはり遅い。私は、人を見るのが少し鈍いのかもしれない。

力、技、速さ。そんな物で力量を見ようとする。剣の強さは、たぶん本当はもっと別の所にあるのだ。

相手は力は元より技も速さも私より劣っていた。だが、死を恐れていなかった。

だから、直ぐに殺す以外に手はなかった。相打ち。男が狙ったのは、その筈だ。

どうして、そんな事が出来るのか。恨みを買った事など、無いはずだ。それとも、酒に酔った喧嘩で命を捨てられる者などいるのか。

ただ、人との立ち合いの経験が浅かった。剣が素直すぎたのだ。それが生死を別けるような、際どい勝負だった。

もし男が私と同等、せめて半数の立ち合いを経験していたら。それは、怖い想像だった。


皆が、遠巻きに私を見つめている。

酒気はとっくに抜け、体には人を斬った高揚感のような物だけが僅かに漂っていた。

私は、そのまま半刻ほど歩いて館へ帰った。ようやく、日は落ちようとしている。途中、役人に止められることは無かった。

いまいち、事情を掴みかねているのだろう。このような事は、数年に一度も無い事だった。


木に枠取られた大業な門にも、部屋への途中でも、不思議と誰もいなかった。中庭では、兄の従者が木々の手入れをしているだけだ。

自室に腰を下ろして、刀を抜いた。少し、曇ったようになっている。血は完全に拭ってあった。曇りは、人の脂なのだ。

打ち粉を打ち懐紙で拭った。念入りにやると、すぐに脂は落ちた。それでも鏡のように光を写したりはしない。どこか、燻ったようになっている。

これが、不思議と曇りのない刃よりも斬れるのだった。

魂がこびり付いている。それも怨念のような魂が。昨年、この刀を研いだ研ぎ師はそう言っていた。


三日間研ぎ続け、私が刀を受け取りに行くと血溜まりの中に座り込んで魅入られたように刀身を見つめていた。血は、研ぎ師の血だ。

酒と混じっていたので、見た目ほど多くはなかったし気付いた時にはもう傷も固まっていた。俺みたいな男は、掴むことすら許しやがらねぇ。

とんでもねぇ女だこいつは。それでも、最後には許してくれたよ。草臥れて荒れていたが、だから綺麗にしてやれた。

その後、別れを惜しむように刀を鞘に収め、渡した御代で山のように酒を買ってまた酒浸りになりながら、計ったように迎えに来た妹だと言う女の荷車に、酒と共に乗せられて帰って行った。

酒が切れたら、また来る。研ぎ師は最後にそう言った。

その頃には、また怨嗟の塊がこびり付いているだろうさ。これは、そういう運命を持っちまった女だ。

男はとうとう、一度も刀を刀と呼ばなかった。長年連れ添った妻の名でも呼ぶように、女と呼ぶのだ。


襖が開いた音がした。私は、刀を鞘に終う所だった。

目の前に兄がいた。それは本当に突然現れたという感じで、襖の音は聞いていながら兄に気付かなかった事に私は少し驚いた。

思ったより、夢中で刀を見詰めていたようだった。春先に変えた真新しい畳の匂いも、窓から入る夕日も、兄と共に初めて私の目に映った。


「なぜ殺した」


いきなりだった。顔は無表情で、感情は読み取れない。兄は、黙って目の前で腰を下ろした。また、幾らか太ったようだ。

それでも体つきは確りとし、勝色(かちいろ)の着物でゆったりと身を包んでいる。


「お前の腕なら、剣だけを弾けた筈だ」


そんな事は無い、とは言えなかった。相打ちを狙ってきたから。それを鵜呑みにする兄ではない。酔いなど、剣を構えた時点で吹き飛んでいた。

一回は、参ったを言わせるチャンスを与えた。それを、せめてもの言い訳にした。

殆ど、発作のような物なのだ。気付けば勝負は終わっている。死んでいるかそうでないかは、運とすら言えた。それは、自分が生きている事もだ。

男は、相打ちを狙ってきた。剣を弾く余裕など無かった。

私は大抵の勝負は剣を弾く事としている。父がそうだった。寸止めはしない。

寸止めは、相手の動きも読まなければいけないからだ。読み違えれば、相手が死ぬか、時にはこっちが死ぬかもしれない。

それでも、あの男を殺さずに済ますことは可能だった。剣が弾けなくとも、腕を斬り飛ばしてしまう事は出来るかもしれなかったのだ。

ただ、試そうという気が私には無かった。当然だ、という気もする。しかし、確かにいつもでは考えられない事だ。


心に穴があいている。それを埋めようと、やらなくても良い所までやりすぎたのか。

しかし、既に決した勝負だと思っていた。酔っての喧嘩で、という戸惑いもあった。

それでも、確かに最後に突いた瞬間。私の体には熱のような殺意が駆けずり回ってはいた。

求めているものは分かっている。

飢えているのとも違う。ただ、確かにどうしようもなく、私を打ちのめしたあの男を求めている。

自分より強い男。何時からか長い間、私はそれを求め続けていた。それを、あの男にも求めてしまったのかもしれない。今にして、そう思う。


「心に乱れがあったのは認めます。しかし、先に剣を抜いたのは向こうだ。法で、私は罰せません」

「法だとっ」


吃驚したように、音を立てて兄が立ち上がった。

私は、直ぐに俯いた。元より、兄は私を法で罰しようとはしていなかっただろう。ただ兄として、事情を聞いただけのはずだ。

やはり、どこか乱れている。兄の登場に気付かなかったのもその所為と思えた。粒としか判断できないほど遠くにいても、兄かどうかは判別できる。

それだけの物を持った人だった。父の後釜を見事に継ぎ、良き領主だと民にも慕われている。中央に来る気は無いか、と誘われた事もあるらしい。

迷ったようだが、一日部屋に籠もって考えに考え、父の後を継ぐことを告げた。中央とは、帝都の大安(たいあん)にある政治の中枢の事である。

何れはもっと大きな領地を与えられ、国主となる事もあっただろう。ただ、利権の争いは激しく醜いと聞く。兄は、それを嫌ったのか。


「いや、確かに何かあったようだな。時間を取らせた。

男は他領の人間だが、鼻つまみ者で殆ど山中で暮らしていたようだ。

男の方が先に刀を抜くのは何人も見ているし、公での咎(とが)はあるまい」


私は頷き、用がありますのでと言って外へ出た。

何も聞かれぬ事に私は幾らか安堵した。外へ出ても、用など何も無い。それは兄も分かっているだろう。それでも、ゆっくりと頷いてくれた。


部屋から出ると、待っていたように次兄が立っていた。不適に微笑んでいるが、この兄は何時もこういう顔をする。長兄よりも、一回りは体が大きい。

日夜部屋に籠もって書類仕事をしているとは到底思えぬ程の威丈夫だが、それでも肌は悲しいほどに白い。

ろくに、外へ出る暇もないのだ。剣よりも、弓や槍を好んでいた。


「無事、殺したそうだな。刺客を」

「なんですって?」


言われて、その可能性に初めて気が付いた。喧嘩を装ってはいたがその可能性もないわけではない。

それだけ、男の行動は奇怪だった。しかし、そんな事があるのだろうか。

喧嘩でのいざこざなら、大抵はただ引っ込みが付かなくなっただけだ。ちょっといなしてきっかけを作れば 、直ぐに退散する。

それを、死を覚悟して刀を振り下ろしてきた。

ましてや、刀を抜くというのがまずおかしいと言えばおかしいのだ。刀を抜いて、すまんでは済まされない。明確な殺意があると言うことだ。

それに、男はそんなに酔っていなかった。

獣のような目、それが不意に頭に浮かんだ。確かに酔っていなかった。そして、殺意だけがあった。死も、厭わなかった。

そんな喧嘩が、果たしてあるのか。刺客だったと考えるほうが自然ではないのか。


自分では分らずとも、二十六年勝って気ままに生きてきた。どこかで知らず恨みをかった事もあったかもしれない。


「しかし、誰が。なぜ?」


それでも、私は疑問を口にしていた。次兄ならば、という思いも幾らかは混じっている。世の情勢については、誰よりも詳しいと思っていた。

何か、調べる手段を持っているということだ。それが何かに、興味を持った事は今まで無かった。


「分からん。だが、案外身近な物かも知れんぞ」


そんな筈が無かった。恨みは買ったことがあるかもしれない。それでも、身近な物ではない筈だ。それならば、こうなる前に誰かが気付く。

よしんばそんな事があったとしても、特に何の仕事もせずに毎日剣を振るっている私を殺さねばならぬ理由など、果たしてあるのか。

浚って、金を求めるわけでも無いのだ。

それに本当に殺したければ、剣を遣う男ではなくただ銃を持って来ればよい。

ただ確かに、一般の個人が買うのに銃は少々高かった。一挺で、四人の一家が三年は暮らすのに不自由しないだけの金になる。それに、弾も使うのだ。

ただし、猟に使う火縄となれば話はまた違った。もっとも、町中を火縄を担いで歩ける事は無い。

周囲に張り巡らした関で回収し、猟に出る場合のみ貸し与えるようにしているからだ。ただ、火縄が必要なほどの獲物はそうそういない。大抵は弓で事足りる。


「まぁ気をつける事だ。堅苦しいとはいえ、余り外を飲みに出歩くなよ。剣しか振れぬお前でも、兄弟だ」


一瞬、俯きたい思いに駆られた。それで、口は別の話題へと飛んでいた。


「道場の話。もう少し、待って下さい。倒したい奴がいる」

「お前を、倒した男か?」


知っているのですか。聞こうとしてやめた。気付けば、自分の部屋に寝かされていたのだ。兄達が、理由を探らないわけが無い。

「えぇ、必ず」


「お前を剣で倒すとはな。いそうもない男もいるものだ。
お前が道場を開いてくれれば、西町の賑わいにも繋がろうと思うのだが」

「すみません」

「いいさ。俺たちの代わりに、やれる事をやっておけ。それがいつか役に立つ日も来るかもしれん」


軽く、頭を下げた。兄の手が、肩に触れてくる。それから、じゃ、と言って立ち去っていった。


兄たちのやりたい事とは、なんだったのか。何を犠牲にして、何を学んできたのか。

領主だ。その為に、学ぶべき事は幾らでもある。民達も、日々を農耕に身を費やしている。私だけが、なにもせず酒など飲み喰らっている。


私は、何を犠牲にして何を学んでいるのか。それが、役に立つ日が来るのか。

分からなかった。兄たちに書が渡されたように、私は父に剣を貰った。

叱るように私を睨み付け、二言だけ呟いてそのまま行ってしまった。何かの時には、これで何かを守れ。眼で、そう言われた気もした。

しかし、何かの時など来る筈も無かった。来たとして、剣一本で何が出来るというのか。


民さえ豊かならば、国は平和なのだ。税を取り過ぎず、一人飛び抜けた有力な大商人を作らない。

物流を良くし、不正を防止する。当たり前の事を守れば、少しずつでも民は豊かになっていく。

当たり前の事だが、それをひたすら守る為に、兄達は心を砕いてきていた。欲という物は、誰にでもある。

土地はここ一つではない。幾つもの土地が連なりあって、国となっているのだ。他の領地を蔑ろにすることも出来ない。

ちょっと吃驚するような理由で、税を重くしている地域もあった。

何代も何代も、農民は農民として生きてきたのだ。氾濫や日照り、理不尽な悪政に痛めつけられながら、民は少しずつ強かになって来ている。

政だけが、遅々として進まない。何時までも、民の生活を締めていくだけだ。

ここ数年、天候に恵まれている事だけが幸いだった。


しかし、それでも大きな不満が民達にある訳ではない。そんな状況で、剣しか振れぬ私に何が出来るというのか。

考え続けろ。五年も前に一度、父にそう言われた。父が死んでからもずっと、考え続けている。

幾ら考えても、未だ分からなかった。父が死んだのは、三年前だ。私が返した無銘の刀を抱いて、眠るように目を閉じていた。

父の懐に入っていた遺書には、ただ領主としての言葉だけが、細かな父の字でびっしりと書かれていた。それは、今私が持っている。


軒から空を見上げると、浅黒く厚ぼったい雲が一面に浮かんでいた。夏の夕下に降る雨は雷が多い。

この分では、どこかに落ちるだろう。風が、それほど無いのが幸いだった。もし火が起きても、町内ならば至る所に水の蓄えをしてある。

直ぐに消せば、その周囲ごと家を壊す必要も無くなる。


雲は、まるで一直線にこの館の上を目指しているかのように、ゆっくりと南西から向かってきているに見えた。


それが、私の心をいっそう重くしていった。







季節はようやく暑かった長月(九月)を越え、神無月(十月)へと入っていた。もう、秋である。

私は夏の中にある涼しさが嫌いではない。ただ、夏よりも冬の方が好きだった。

身だけではなく、館の中も引き締まったようになる。植木は日に日に紅葉を増して駄々広い庭を哀愁が染めている。


あれから三人。何かを振り払うように斬った。首筋の傷は、痕さえも残らずとうに癒えている。

深手を負わせた者が一人いたが、みな殺してはいない。それに、どれも向こうから襲ってきたのだ。

しかし、構えるとその何れも私には構えの向こうに奴の姿が見えて仕方が無かった。それで、斬らなくて良い男も斬った。


何れも、理由は些細なものだ。しかし、だからこそ妙だと首を捻るにはもう些か無理がある。

誰かが、私の命を狙っている。もしくは身柄を。それはもう、確かなことだ。

だが、そんな事をして誰が得をするのか。理由は無いはずだ。

それが分からない限り、誰が私を狙っているのかも分かりそうになかった。

それでも、刺客は来る。

いつの間にか部屋へ流れ込んでくる季節の風のように、それはもはや止められないことに思えた。

出来るのは、風が体を冷たく撫でながらふっと抜けて行くまでじっとして耐える事だけである。


鞘を払い、剣に付いた血を拭って打ち粉を打った。やはり刃こぼれは無い。

刃音を鳴らすと、春先に取り替えたばかりの畳が些かに匂った。それでも、もう大分落ち着き部屋の一部になろうとしている。


先ほど、四人目を斬ってきた所だ。また些細ないざこざだった。と言うより、いざこざでさえない。

私が避けた所に、男がぶつかってきて因縁をつき始めたのだ。気付いた時には遅かった。理由など、何でも良いのだろう。

明らかにぶつかって来たのを避けたのも悪かったかも知れない。勢い余って躓いた姿は、いかにも間抜けだった。

憤慨して、いきなり斬り掛かってきたのである。短気な男だった。そしてそう言う男は少なくない。

大抵はどこか村の腕自慢であるから、腰に剣を差す事も抜く事も厭わない。刃の恐怖を知らんのだ。そして、どれもたいした腕ではなかった。

今思わずとも、やはり酒屋の前で斬った男が一番強かった。皆あの男のように、死を覚悟してもいない。

二人目など、剣を抜いたとたん腰を抜かしたのだ。それも妙だった。私を殺すにはお粗末すぎる。刺客だとしても、腕にムラがありすぎた。

殺さぬのは誰に雇われたのか聞くためだったが、三人は何の事か分からぬと言った。私の事を、知らないで斬り掛かってきた男もいた。

一人は、喋れぬほどに手傷を負わせてしまったのだ。未熟だったが確かに激しい所があり、それが私の剣を誘った。

三人はどれも尿を垂らすほどに怯えていたので、嘘を言ったようにも思えなかった。


刀を、ちょっと夕焼けにすかせて見せた。やはり刃こぼれは無い。剣でも包丁でも、正しく使えば刃毀れは起きないのだ。

これが出来るようになるまでは、私は父に剣を渡されなかった。自分で持っていた、無銘の剣を振るっていたのだ。無銘だが、悪い刀ではなかった。

しかしそれも、やはり父に渡された物だった。自分で購うに、剣は幾らか高い。あれほどのものなら、酒屋で酒を一年飲み食らっててもまだ尽きまい。

父が死してから、その剣の行方は知らない。ただ、懐かしそうにその剣に打ち粉を打つ父の姿を、月夜の中に見たのは、一度ではなかった。

同時に、憎んでいるような眼で剣を眺めている事もあった。今にも叩き折ってしまうような気迫が部屋から溢れ出ている事すらあった。


刀身は、幾らか再び曇りが濃くなって来たように見えた。

不意に、砥ぎ師の言っていた台詞が脳裏を掠めた。確かに、あれから何人も人は斬ってきた。


鬼哭剣(きこくけん)。父は渡す時に二言だけ口を開いた。剣の名だろう、と漠然と思った物だ。そして、何時かその剣で鬼を斬れ、とも言った。

父の剣は、鬼の剣と呼ばれただ凄まじかった。

鬼の遣い手。父は若い頃、領地の付近で野党に襲われた帝を救った時そう呼ばれたのだと兄に聞いた。

その時、この剣を授けられたという。いずれはこの剣を越していけ、そう言われたのだと思った。

なぜ、そんな剣がこのように扱われているかは分からない。語られていない部分もあるのだろう。なぜ野党が帝を襲ったのかも分らない。


淡い光を放つ刀である。純粋に光を跳ね返したりはしない。絡め取るように光を刀身に巻き付ける。

これが、並の研ぎ師に見せれば直ぐに鏡のように輝く素直な刀身になるだろう。刀の意思など関係なく、そのように削られるのだ。

しかし、鈍い光を明確に放ち始めた時から、この刀は不気味な程に切れ味を増した。あの砥ぎ師に渡した後からである。


父から渡された時は、興奮が収まらなかったものだ。何本も巻き藁を並べ、二つに斬り倒した。その時は、まだ二つが限界だった。

不思議と、その頃から鬼哭剣は私の手に良く馴染んだ。人を斬ったのはその直ぐ後だ。鬼が、体に宿ったのだ。不意にそんな事を思った。


「若様、領主様がお待ちです」


穂浦の、澄んだ声が聞こえた。幾ら言おうと、若様という呼び名を改めようとはしない。長兄の妾の女だった。

妾はいるくせに、妻はいない。稲浦が妻のような物だった。ただ漁師の家の出で、そのまま妻に迎える事は出来なかった。

それに逆らうように、兄は全ての縁組みを拒み始めた。

確かに綺麗な女だが、私はいまいちこの妾が好きになれなかった。稲浦も、剣しか振れぬ私を好いてはいないだろう。仕草の節々に、それは出る。

だが、長兄は構わずこの女を私を呼ばせに寄越したりした。政治や商いには鋭すぎるほどだが、どこか人には無頓着な所があった。


「分かった。手間をかけるな、こんな事は平助にでも任せろと兄には何度も言っているのだが」


稲浦は長兄の妾だが私よりも年下で、二十三だった。だからか、言葉は不躾で通していた。そんな事すら、兄にはどうでも良いようだ。

自分勝手というより、基本的に人のそういう所に無関心な人だった。

だから、稲浦を妾にする時の兄の奮起ぶりには目を見張るような気持ちだった。しかし、それも妾にするまでだった。


平助というのは通いの下男で、大抵は庭で木々の手入れをしている。腰の曲がった、老人のような男だった。ただ、まだ四十を過ぎたばかりのはずだ。


「良いではありませんか。そう言った所も、民には好かれているのですよ。
蔵の領主は人を身分に拘らず平等に使うと。私のような物を、家に迎えても頂いて」


それでもお前は妾止まりだった。襖越しでなければそう呟いていただろう。

どこか、人に分別を忘れさせるような微笑みを持つ女ではあった。それは、上手く行く時もあれば悪い方に左右する事もある。


長兄に次兄、それに私の名には蔵の一文字が入っていて、だから名字と合わせ淺埜三蔵(あさのさんくら)と呼ばれる名は他領を含め広く知られていた。

もっとも、本当に敬われているのは長兄と次兄だけで、他領で私はついでのようなものだった。しかし、流石に表だって淺埜二蔵と呼ぶ物は流石に領内にはいない。

三人の中の誰かを指すときには、蔵の領主、蔵の政主、蔵の剣主と呼ばれた。

だが、兄が身分に拘わらず平等に人を使うというのは甚だ疑問だった。単に人使いが荒いのと、人に無頓着過ぎるだけだ。

ただその所為で、自分より下の物は皆同じだと思っているのもまた確かだった。


立ち上がり、襖を開けた。その時にはもう稲浦は姿を消していた。一人で対するとき、この女の後ろ姿は見た事がない。それが、また私には不快に思えた。




夜、月さえも出ていない。明かりもなく、ずっと向こうまで闇が私を包んでいるように思えた。

その闇と向かい合った。暗闇の向こう。更にその向こうに、何かがある。闇を斬れれば、それが見える。

そして更にその向こうを斬れるのか。闇の向こうには、何があるのか。少なくとも、闇の向こうは闇ではない。

奴だ。闇の向こうに、奴がいる。そう思い定める事だ。しかし、ならば斬れるのか。

斬る。それだけを念じた。


太刀を構えると、虫の鳴も止み辺りはりんと静かになった。体中から、気を発しているからだ。虫や獣の方が気には敏感だ。

しかし、奴は何も発してはいなかった。

ただ立っている。確かにそうだった。なのに、幾ら私が気を発してもピクリともしないのだ。あれは、何故なのか。何故そんな事ができるのか。

虫の鳴き声を止めないで構える。奴ならそれが出来そうに思えた。地に根を張り、絶えず危険に感覚を張りつめている獣たちにさえ気付かれずに構える事が。

しかし、一体どうやって。

気を操る事など、出来る物なのか。抑えたそんな状態で、刀を振れる物なのか。


考えながら構えていると、次第に闇が霞み、朝日が昇ってきた。結局夜通し構えていたらしい。意識が朦朧としてきている。

何時の間にか、剣先は地面に付くすれすれの所まで下がっていた。


気を、発していたからだ。延々と発せる物ではない。気を漏らさず、自分の内に溜める事が出来れば。

気を内に溜め、一の太刀に全てを篭める剣術があると聞いた事がある。二の太刀は無い。一刀で斬れねば死。

そのような、壮絶な剣術があるとどこかで聞いた。

その場合も、やはり気は内に篭めるのだ。その溜めた気を一刀に全て載せる。そうすれば、自ずと気は爆発する。

おそらく、それが極意だろう。頭ではそれが分かる。単純な物だとも思う。しかし、私は気を溜める事すら出来ないのだ。

それに気を完全に内に篭められれば、打ち込みを読まれる事も無くなる。それが出来ぬ私は、やはり未熟だった。


「若様。朝餉でも、ご一緒に如何ですかな」


後ろから声をかけてきたのは、昨夜から世話になっている寺の僧だった。肩が突き出た意丈夫な事以外、型通りの和尚だが、目に妙に暗い光がある男だ。

表向きには、人を殺めた為にしばらくの出家、と言う事になっている。だが因縁を吹っかけてきたのは向こうで、それは皆知っている。

出家と言っても、殆ど形だけと言う物だった。頭を丸めてもいないのだ。稲浦に言われて兄の自室へ行ったとき、兄は出家しろと短くそれだけ言った。

剣なら境内でも振れよう、わざわざ人目を騒がす事も無い。そんな事も、共に言われたのだと思った。

なぜなら、幾らなんでも殺す事は無かったという思いも、民の災難でしたな、という顔の裏にあるのを知っていたからだ。

蔵の剣主は血を好む。そんな噂が淑やかに囁かれ始めてすらいた。

慕われていないのでも嫌われているのでもなく、そう言う物なのだ。


「あぁ、ありがとう」


疲れていたが、そう返事をしていた。ここで飯を逃すと、自分で作るか町へ降りるかしかなさそうだった。

出家した理由から、町へは降りたくなかったし、まともな飯など自分で作ったためしがなかった。

時折(ときおり)した旅では、捕まえてきた獣の皮を剥ぎ、肛門から木を削った棒を口まで通して火から少し離れた所に置くだけである。

兎などは、そのままで最後に塩を加えれば良い。後はガチガチの柔穀米(パンのような物)を肉の脂で湿らせて一緒に齧り付くのである。

猪など大きな獲物は面倒で、一度腹を開き内臓を全部取り出さなくてはいけない。

取り出した内臓の変わりに米や野菜をありったけ突っ込んで切り開いた腹と肛門を糸で縫うのだ。

とても一人で食べきれる物ではなく、手間以上にその美味さは格別だった。たまに私が館で振舞う唯一の料理と言って良い。

野蛮だと言っていた兄達も、仕舞いには匂いに釣られてやってくる。


僧は、嬉しそうに笑って堂の中へ消えた。

私も向かおうとし、剣をまだ鞘に収めていなかった事にようやく気が付いた。手は固まっていて、子供がいやいやするように中々柄を離そうとはしなかった。


「しかし、乱れておられる」


堂に上がって、まず僧はそう言った。


「乱れる、とは?」

「分かりませぬ。私は、ただの坊主でありますゆえ。
しかし、そうですな。急く。そのように見えました。無理をした所で、剣は上達する物ではないのでしょう。それ所か、何れは身を滅ぼす事にもなりましょう」


知った口を。言いそうになり、咄嗟に口を噤んだ。

刃が、首を掠めていく。感じたとき、私はすぐさま後ろに飛んでいた。

ふ、と僧が笑う。刃など無く、僧は動いてさえいなかった。無論、幅広の座室には他に誰もいない。ぽつん、と白い障子と襖があるだけだ。


「やはり、乱れておられる。この程度の気。やり過ごす物で御座います」


僧は、そう言って湯を啜った。もうだいぶ温くなっている筈だ。

化かされた。というより、殺気は本物だった。じんわりと、手が湿っている。


「坊主、昔は守りか」


常時の兵にはならず、戦の時のみ召集に応じる戦人を守り(まもり)と言った。

大概は幼少の頃から家で鍛えられてきた剣や弓などの強者で、何処の領地にも百程度は必ずいる。急場の兵のような物だ。

だが、この領地には少なく、三十と少しだった。父が、自らの土地を守るだけに専念し、ろくに畑仕事もせぬ事を嫌ったのだ。

他方に行く守りもいたが、大半は農民との折り合いをつけ今ではその殆どが農民と変わらぬ暮らしをしている。

それでも、この土地が内に持っている力は他方と変わらないはずだ。守りが農民と変わらぬと言うことは、考えようによっては農民全てが守りと言うことなのだ。

その為に必要な助力も、父は惜しまなかった。月に一度は、西町全体で大規模な調練もやる。

西町の殆ど全ての家に、戦の備えがされているのだ。また、平時にそれを持ち出して人に危害を加えた物は例外なく厳しく罰した。


「修練で友を殺めました。もう、随分と昔の話でございます」

「そうか」


言う事はそれだけしかなかった。木刀だろうが、竹刀だろうが当たり所が悪ければ人は死ぬ。一撃で殺すことも出来る。

そうでなくても、何時かは人を斬るかも知れぬ。斬られるかも知れぬ。

所詮は、戦うための術(すべ)なのだ。

それをどう乗り切るかは、各々次第だった。


私が始めて人を斬ったときは、倒れるまで木を斬り倒した。身体中が暴れていた。顔の表情はなく、淡々と刃を振るう私には誰も近づかなかった。

庭裏の木を半分倒し、やっと私も倒れた。気は済んだか。そう言って父が痛々しそうに私を抱えて自室へと放り投げたのだ。乱暴な扱いが、むしろ心地よかった。

十五の時だった。それからも、夢は見る。

刀を持って襲ってくる。時には刀身だけだったこともある。何れも、私は剣を構えたまままったく動けなか った。刃が目の前に下ろされ、触れる瞬間目が覚める。

大体、月に二三度ある事だ。何時までも、それは終わらないだろう。負うべき物。目が覚める度に、そう思っていた。ただ、心が弱いだけかもしれない。

そう言う思いは、常にあった。


「まだまだ未熟か、私は」

「まだお若いので御座います。なまじお強いばかりに、余り負けも知らぬ」


僧の眉がぴくりと動いた。眼は下を向き、そこにある膳も見ていないようだった。


「ほう。負けた方が良いと申すのか」

「それが、己が為なら。自らの為に、人を斬るぐらいならいっそ負けた方が良い」

「向こうが殺そうとしてきたらどうする。負けは死だぞ。まさか死ねと言うのか」


死と言ったとき、初めて僧の目が私を見つめた。暗い目だ。達観しているというより、全てを諦めているような眼だと思った。

「一時の勝利に、何の意味がござりましょう。勝ちは新たな勝負しか招きませぬ。
負けと死は同義ではありません。勝ちと殺生もまた。死なない程度に、負けてやれば良いのです。
また、どうしても負けられぬ時は殺さぬ程度に勝てば良い」

「そう上手く行くものかよ」


それきり、私は黙った。僧も、話そうとしない。

一気に、残りの粥を啜った。置く。その時、ふとこの僧を斬ろうと思った。

斬るまでとはいかずとも、剣を弾き飛ばし、それでもまだ負けた方が良いと言えるのか、試してみたくなったのだ。

言うという気もしたし、言えぬという気もした。僧自身も、分かってはおるまい。

だからこそ、試したくなったのだ。


夕刻。私は僧を境内の裏に呼び出し鬼哭剣を放った。刀は地面に転がり、幾らか土を舞い上がらせた。

僧はそれを見ようともしない。

私は脇差しを抜き、正眼に構えた。


「斬るぞ」

「構いません。どうにしろ、私では貴方に敵わないでしょう」

「私は脇差しだ。それに、負けと死は同義ではないと言ったではないか。今負ければ、死ぬぞ。刀は、遣えるのであろう」

「それでも、私は構えません。二度と刃は持たぬ。友を殺めたとき、そう決めたのです」


かっと体の中を暴れるものがあった。何を勝手な事ばかりを、と叫ぶ血が身体中を駈け回ったようだった。

身体が動いていた、気付けば、僧が俯せに倒れていた。殺してはいない、気を失っている。

血は、それほど出ていない。死んでもいない。私は、思わず舌打ちをした。

仰向けに直す。法衣が線が走ったように途切れ、血はそこから脈々と溢れていたが、傷はそう深くない。しかし、医者は必要だった。

助ける気ならばだ。死なすには少し惜しいとも思った。まだ楽にはしてやらん、とも思った。

僧の眼には、やはりただ暗い物だけがあった。暗いから見難いだけで、底は浅い。しかし、不思議な気のようなものが僧にあるのも感じていた。

才には、恵まれた男だったのかもしれない。それ故に、剣が己が本意を速く読み取りすぎた。一体幾つの頃に、この男は友を殺したのか。

十にはなっておるまい、それは不思議と確信できた。


「おい、医者だ」


そう慌てもせず、私は一度だけそう叫んだ。たいして力も込めず、それでも平地に作られた寺には良く声が 響いた。

私が鬼哭剣を拾い腰に差した頃、ドタドタと足音がし小坊主が駆け込んできた。縁側は横に真っ直ぐに伸びている。

少々薄暗く、普段は余り使われていないようだった。


「医者だ。腹を私が斬った。早くせんと、助かるものも助からなくなるぞ」


蒼白な顔で、小坊主が頷いた。壁に手を突きながら、走り去っていく。叫び声を上げないだけましだろう。

僧は、三半刻(四五分)の間ならば間違いなく助かる。私にその気があれば、今頃はもう血も止まっていたかも知れない。

どっちにしろ、なるべく早く腹の傷を縫うだけだ。傷は内臓にまで達してはいない。

縫い後が、上手いか上手くないかの違いで、命に別状は無いとしても一刻も早く縫った方が良いに決まっていた。医者が間に合うかは、こいつの運次第だ。

ただ、もうここにはいられない。これは、さりしの兄たちも頭に角を生やすだろう。少し、旅に出ようと思っていた。そう言えば、久々の旅だ。


門から、堂々と抜けることにした。罪人のようにこそこそとする気はない。私が斬ったのではないと、どう説明しても誰にも分からぬだろう。

逸れも当然で、実際私が斬ったのだ。ただ、斬らされた。その違いは大きいと思った。

器は狭いが、腕は間違いなく達人だった。あれほどの男でも、剣を捨てられるのか。いや、完全には棄てられていなかった。だから、私に余計な助言を言った。

それに、少なくとも命は捨てられなかった。ぎりぎりの所で半歩後ろへ退いた。それで、あの程度の怪我に抑えたのだ。

殺す気で踏み出させられた事を、私はまるで忘れていた事のように思い出した。

それでも鬼哭剣ならば斬れていただろう。命を拾ったような物だ。それともそれさえも分かっていたのか。


門の脇には雷にでも打たれたのか、まるで巨大な鬼にでも左右に裂かれたような大杉が一本立っていた。

随分と前に落ちた物なのか、割れた木の間に新たに芽が吹き出し、空へと向かって伸び始めている。葉が全て落ちているのは、木の寿命ではなく季節だろう。

もう、冬の風は吹き始めている。冬の雷は夏の物よりも少なく、堪えに堪えた気合いのようにより大きくなって落ちるのだ。


寺から町へは降りず、ぐるりと塀を回って私は裏の山へ向かった。館のある山とは、正反対の方向である。

ここならば、兎も猪もいるだろう。それだけの深さがあった。鍋も米もなかったが、風の通り道が幾つかあり、そこに転がっている木はよく乾いていて良質の薪となるのだ。

それでもとりあえず、この山は越えてしまおうと思った。深いが、それほど険しい山ではない。五刻もあれば十分だろう。

そういう時間すら、今の私には余り関係ない事のように思えた。刺客も、私が国から姿をくらませてしまえばどうしようもあるまい。

季節が冬になろうとしていることが、困り事と言えば困り事だった。最も、ここは余り冷える土地ではない。遠くの海から暖かい風が吹いてくるからだ。

ただこれ以上北に行くと、山に遮られるのか暖かな風は途絶え、逆に北から葉も凍るような風が吹き始める。ここは、丁度はその中間辺りだった。


北へ行こう、草鞋が凍り付くような場所が良い。

思うと、私はもう決めていた。


兄達の追っ手が、私を追ってくるかもしれない。二十幾つの時は、殆どを旅して過ごした。

半年か一年ぐらいすると、思い出したようにそろそろ帰ってきてはどうだと使いが来る。

それは漁師のような身なりをしていたり、逆に山師のようであった事もあったが、おそらくまともな物ではあるまい。

人捜しや間諜を業わりとした者達は、平和な時代だからこそ必要なのかも知れなかった。父がもう長くはないだろうと教えに来てくれたのもその内の一人だった。


旅は幼少の頃から好きだった。忙しい合間を縫って、父に連れ出して貰った事もある。

猪の喰い方も、兎の皮の剥ぎ方もそれで学んだ。最も、父が死んでからは自重していた。

私などいなくなってしまった方が良い。そう思いながらも、中々出られる物ではなかった。

今回は、良い機会かも知れぬ。風は、私を誘うように北から吹き降り、山にぶつかって巻き返してくる。上空には、冬の雲がとぐろを巻いて立ち込めていた。







雑多な木が多かった。どれもまばらで、どれも同じように見える。しかし、よく観察してみるとどれも少しずつ違うのだ。

地面の上を這うようにして、食える野草を何本かまとめて引っこ抜いた。

と言っても、余り眼が利くわけではない。毒があるか無いかぐらいの知識だが、それで十分だとも言えた。腹の中に納めれば皆同じである。

この考えは、兄達にはまったく理解されなかった。それが当然のような気もする。

野草は、今は殆どが雪に隠れている。木は、まるで凍ったように白く染まり、吐く息はそこら中にある雪に染められてしまったようだった。


先ほど見つけたわき水から瓢箪に汲んできた水を鍋に満たし、今にも倒れそうな小屋に運んだ。それでも、柱の作りなどは確りしている。

ただ壁の幾つかが剥げ、隙間風が酷いだけだ。それも、次第に気にならなくなった。

火は直ぐに盛りを取り戻した。澳(おき)を作っておいたからだ。

薪を燃やした後に残るかすのようなものだが、これに新しい薪をくべて空気を吹き込んでやると直ぐに火が蘇る。


米と、味噌を入れ、沸騰してから野草を入れた。じわりと滲むように、灰汁が出る。木の枝を削って造ったたまで、適当に掬った。

最後に兎の干し肉を入れた。まだ雪の積もらぬうちに取り、干し肉にした物を幾つか雪の中に埋めてあった。

不思議と、肉は雪の中でも凍らない。凍ったようには見えるが、握ると肉の弾力が確かに手に伝わってきた。

やがて、湯を吸って白くなりながらぶよぶよに膨らんでくる。三四度かき混ぜて、米と共にそのまま喰った。

そう美味くはない。ただ、馴れればどうと言うこともなかった。味噌と米があるだけましなのだ。

それと、少量の塩だった。塩だけは、鞣(なめ)した小さな革袋を瓢箪(ひょうたん)と共に腰にぶら下げ、絶えず体に身につけている。

塩と水があれば、他に何も無くとも驚くほど人は生き延びる。それでも駄目な事は、そうそう無い。


疲れた身体に、味噌の香りと塩と米の熱気は程よく染み渡った。そう言う意味では、館で食う飯よりも格段に美味いとも思えた。

体は、もう異臭を放っているだろう。着物は粗末なものへと変えていた。耐えきれぬ寒さは、獣の皮を着て防いでいるから、一層匂いは酷いはずだ。

たがそれでも、毛皮は必要だった。耳など、守っていないと直ぐに駄目になる。元から着ていた着物は、一度小さな村に降りて金に換えていた。

何処からか盗んできたように見えただろうが、そんな事は店主に関係なかったようだ。

そこで鍋も米も味噌も買った。それでも、まだ懐には二月は食うに困らない金がある。

この所、豊作だったのが随分と助けになった。それでも、兄達の領に比べると全てが高い。有力な商人が米を抑えてしまっているのだ。

やがて米の値が上がると、少しずつ売っていく。凶作の年は、一握りの米がまるで金のように高く売れるという。


平和と言っても、この程度ではある。町を出て、もう二月ほど経っている。季節は、いよいよ凍えようとしていた。

しかし、これほどの間誰も追ってこないという事は、兄達はまた困った顔をして笑っているのだろうか。

もう帰ってくるなと言うことなら、伝言に誰かを寄越すはずだ。それとも山伝いに歩いてろくに村にも町にも降りていないから、捕まらないのか。


人なら、何人か斬った。山賊まがいの男だったり、守り人のような身なりをした、理由の良く分からない男もいた。皆、向こうから襲ってきたのだ。

街道を外れて山の深い所に入れば、追剥のような輩もいる。

それでも、気を放つと大抵の奴らは腰を落として逃げていった。ずっと歩き続けてきたが、今はここが気に入っている。

歩くのが、心地よい季節でもなくなっていた。猟に使う山小屋だろうと当たりをつけてはいたが、実際はどうでも良かった。


手に目を落とし、弄ってもいないのに黒い土が爪の間に入り込んでいる事に気がついた。

体は、こすると皮のような垢がぼろぼろと落ちてくる。この寒さで、流石に水浴びはしていない。

したくとも、ちろちろと湧き出る程度の水ではどうにもならなかった。大概の小川は凍ってしまっている。


手では他に、剣蛸が擦り切れていた。直りかけてもすぐにまた切れてしまうから、短く切ったさらしをいつも手に巻いている。それにも、赤く血が滲んでいる。

毎夜、闇に向かって剣を振るっていた。それは日が昇るまで続き、不意に止める。止めるときは意識してはいなかった。が、徐々に長くなっている気はした。

眠るのは、ほんの数刻だ。後は、野草を探したり獣を探したりして山を歩いていた。


飯を済ますと、外へ出た。奴が来ている。その気配は、ずっと遠くからあった。


腹ごなしに、軽く二三度飛んだ。何度見ても、気の竦むような男である。男は、それほど乱れた身なりはしていなかった。

羽織に藍の袴で、耳を守るためか頭に巻いている頭巾は滑稽ではあった。

ただ、それでも私の方がずっと山賊などに見えるかもしれない。

顔は若々しいが、口元に草臥れたような小皺があった。それでどこか歳を取って見えるが、実際は長兄と同じぐらいの歳かもしれない。


「名は?」


言ってから、初めて聞くなと思った。そしてまだあって二度目だという事に驚いた。毎夜、会っていたという気がする。


「おかしな事を聞くな。貴様と私の間に、名がいるのか。それに、名は捨てた」


それきり何も言わず、私は剣を抜いた。半年近くもの間、待っていた。男も、待っていたのだろうか。

男の眼は、ただ澄んでじっと動かなかった。眼の奥に、底は見えない。

男も剣を抜いた。凍るような静かな対峙だった。


勝てるかどうかは分らなかった。死んでも良い。何処まで、そう思えるか。


剣筋。潮合も何も無く、不意に訪れた。しかし容易く弾ける。剣の筋は二つになり、四つになった。見える。返しの袈裟を鍔で受け防ぎきった。

地摺り。右から上へ薙ぐように振るう。そのまま切り返し突いた。手応えはあった。だが弾かれる。

下がり、構え直した。ここは、冷静に行くべきだ。奴は脇から血を流している、私はまだ無傷だった。何時の間にか立ち位置が入れ替わっていた。

いける。何処まで死に近づけるか。死に飛び込んで、ぎりぎりの所で摺り抜けられるか。体は、羽のように軽かった。


気を発した。奴は、相変わらず静かに立っているだけだ。互いに正眼の構えだった。

奴が、先に踏み込んだ。剣筋。刃風が肌を打った。討てる。思ったとき、奴の剣が幾つにも増えた気がした。三本の剣が襲い掛かってくるようにさえ見えた。


馬鹿な。


腕の痺れ、まだだ。まだ耐えられる。まだ、弾ける、弾ききれる。思ったとき、何か巨大な物が私の体を打ちのめした。

痺れを感じる前に、剣が吹き飛んだのが分った。何処まで、死にきれるか。どこまで、死に近づけるか。

無造作に私は足を踏み出した。柄を掴み、投げ飛ばす。難しいが、出来ないとは思わなかった。もう半歩。ここまで近づけば。

線。何かが、体を走った。

そのまま抜けていく、雷にでも打たれたような衝撃がただ身体中を襲った。耐える。そんな生やさしい物ではなかった。死と同じように、抗えぬ物とさえ思えた。

蹴られ転がされていた。雪が血で染まる。跳ね起きようとしてまた倒れた。無かった腕が。俺の左腕 。血が、湯水のように噴き出していた。


「土地へ帰れ。片腕ではもはや剣は振れまい。兄達の背に隠れて、世を憾んでいるが良い」


さげずむような眼だ。まるで死体を見るようだった。俺は、屑ではない。屑ではない筈だ。


「貴様っ!」


光の筋。一瞬で、ふっと視界が暗くなった。

屑なのか、私は。闇に、そう説いていた。何時までも、何度説いても、返事は来なかった。いや、最後に。

屑だ貴様は。そう叫んでいる、誰かが見えた気がした。


父だった。







初め、意識は混濁していた。夢なのか。布団にくるまれている。そして幾つかの染みの浮かんだ高い天井。

微かな水の音。心地よい匂いに、更に女だった。綺麗な女だ。やはり、夢か。そう思うのに、体に走る痛みは鋭すぎた。


「……お前は?」


女は何も答えなかった。髪が美しい。どこか、艶のようなものを持っている。桶に入った水で何かを浸していた。額の上に違和感がある。

黙ったまま、女は私の額に置いてある手拭いを取り替えた。体には晒しの巻かれている感覚もある。


「手当てをしてくれたのか」


微かに、女が頷いた。良い着物を着ている。椿のようだ。

良い家だった。材木などを見るとそうだと分かる。女の着物も、この布団も高価な物だった。

ただ、私の肌着は麻の古着の様だ。


「なぜ、私の傷の手当てなどしている。私が誰だか知っているのか?」

「知りません。あの御方に言われたから、私は彼方の世話をしています」

「あの御方?」

「何時も、悲しそうな眼の御方」


不意に、あの澄み切った眼が何かを悲しんでいるようにも思えて、私は直ぐに男の顔を頭に浮かべた。

ただ、そんな事を聞かずとも、少しあの状況を考えればまたしても奴に命を救われた、という他には無いのだと言うことも、次第にハッキリしてきている頭で理解できるようになっていた。


「そうか、余計なことを」


だが、それならば理由が分からない。なぜ私は生かされているのか。

頭で考えていることと裏腹に、私は別の事を聞いていた。自然に、そのように口が動いていたのだ。


「惚れているのか? 奴に」


はっとするほど悲しそうな顔が、私を見詰めてきた。無表情だが、澄んだ水のような眼が微かに揺れている。

悲しそうな眼をしているのは、お前ではないか。流石に私は口を押さえた。言わぬ事には成功したが、ただ口を押さえるつもりだった左腕はどこにも無かった。

布団が、頼りなくその部分で萎れているのを見て、ようやっと数百本もの針で皮膚を刺すような痛みが私を襲ってきた。

だがその痛みすらその眼に吸い込まれるようで、私はじっとその眼を見詰めていた。


束の間女の瞼が閉じられ、開かれたときには悲しみ以外の何かが確かにその眼に宿っていた。

熱を帯びたようなその光を、私は初めて見た。ぞくりと、何かが撫でるように優しくけれども激しく体を貫いていった気がした。


「週に一度、願いを聞けばその度に一度、抱いてくれます。それで良いのです」


始めは抱くと言うのが何の事か分からなかった。暫くして、やっとそれに気付いた。

そして女の口から、こうも露骨に出る言葉かと驚いた。不思議と、痛みはもう止んでいた。額に浮いた汗は手拭が全て吸ってしまったようだ。


「良いのか、それで」


「分かりません。分かって、どうなる事でもありません。あの人は私が拒もうが誘おうが必ず週に一度、私を抱きます。
その時は、夫も亡くし死のうかと思いましたが、今は分かりません。浅ましいと思っても、身体は宙に放り出されたようになります。死のうとする気力さえも奪われるのです。
私が泣くと、飯を食らい糞尿を垂らすのと同じだ、と一度だけあの方は言いました。
私も、そう思う事にしています。そうして、浅ましくまだ私は生きています」


美しい女だった。今まで、女を見て美しいと感じた事は無い。それが、なんとなく忌々しかった。


「すまぬ。私が聞く事ではなかったな」


不意に、私はどうしようもなく惨めな気持ちになった。それと同じ量、奴を憎んだ。初めて、奴を憎んだと思った。

悔しくはあったが、奴を憎む気持ちは私の中に一片もなかったのだ。むしろ、好ましくさえ思っていた。剣客としては、狂うほどに奴を求めていたのだ。


「いえ、言わない事も出来ました。なんとなく、口が動いていました。
誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。これも、分かりませんが」

「分からない事ばかりだな。あなたは」

「えぇ、まったく」


束の間、女が始めて笑顔を見せた。その笑顔に、私はまた惹き込まれそうになるのを感じた。やはり美しい。

何度もそう思った。


弾けるように、私はその笑みから顔を背け、布団をかぶった。情欲のような物が、不意に私を襲ってきていて、とてもその顔を見てはいられなかった。

これも、初めての経験だった。男根は、それでも何かを主張し続けていた。自分の浅ましさを、こうもはっきりと感じたのは初めてだった。

剣で敗れたほうが、まだマシだとさえ思った。


場所は、小汚い小屋などではなかった。宿場でもない。広さはさほどなく。どこか、屋敷の中にある離れを思わせた。しかし、おそらく町外れにある一軒家だろう。

草臥れていない程度に使い古された囲炉裏も台所も、ここから伺えた。ただ、ひっそりとしていて彼女以外には外にも人の気配はなかった。

一人で暮らしているのか。夫は死んだと言っていた。ならば、どうやって碌を食んでいるのか。

女は、幾つにも見えた。十五六の少女のような明るさも、三十に迫ろうという落ち着いた女性の顔も持っているように思えた。

本来は快活な女性なのかも知れない、ただ、眼に宿る光は余りにも深く澄んでいた。壁の、板目の小さい丁寧な作りに浮かぶ年輪を見詰めていると、幾らでも想像は膨らんだ。

しかし、それが大きく膨れ上がる寸前には、なぜか必ず裂傷に塩を塗り込むような痛みが左腕に走り、たちどころに四散させられた。

残った右腕で布団を握りしめ、その都度私は耐えねばならなかった。それを忘れるためにも、私は台所で仕事を始めた髪の美しい女性のことを考え続けた。


美味そうな匂いが、鼻先を掠めた。出てきた物は、粥だった。そこで初めて上体を起こし、自分の格好も見た。肌が綺麗に洗われている。

着物も以外に確かりとしたものだった。微かに、香の香りが漂っていたが、質素でいて品のある匂いで、それは悪くなかった。

思ったより身は軽く、立てるのではないかと思ったが、膝を立てただけで私の視界は暗くなった。

気付けば、そっと女の腕に支えられていた。細いが、しっかりとした腕だった。ただ、少し白過ぎる。それも儚げに見えて、余計に女の美しさを際だたせているように思えた。


「血が多く流れておりました。どうか無理をせずに」


耳元でそっと告げられた声は、少し大きく、滑舌としっかりとした物だった。

そこに、優しさ以外の激しさが含まれていることに私は気付いた。やはり、何か訳がある。

そしてそれは、奴と関係あることだ。そう、私は確信した。


頷いて、私は粥を手に取ろうとした。女の手がそれをやんわりと退け、赤い朱塗りの杓子で私の口へ粥を運んできた。


「片腕では何かと不自由も多いでしょう。椀を持って箸を持てぬのもその一つの筈。お口に合えばよろしいのですが、熱いのでお気をつけて」


私は、こそばゆい気持ちに包まれながら口を開けた。粥が流し込まれてくる。確かに、火傷をするかと思うほど粥は熱かった。その熱さが、かえって私を正気に戻した。

また粥を口に運ぼうとする松夜を、私は軽く顔を退くことで制した。


「いや、ここまでして頂いてこれ以上好意に甘えることは出来ません。故あって国元には帰れぬ為、傷が癒えるまで置いて頂きたいが、身の回りのことは自分で成そう。
幸い、粥は飲むようにして啜ることも出来ます」


きっぱりと言うと、女は懐かしそうに頬を緩め、次に口を押さえながらほほと笑った。


「おかしな人。先ほどからあの御方と同じ事ばかりを申します。まぁここは私に甘えて御覧なさいな。好意を黙って受けるのも、礼儀作法の一つなのですよ」


まるで子供に躾を諭すように言い、はいと杓子を私の口の前に差し出した。今度は、先ほどより少量のようだ。顔にでも出ていたのだろう。

これぐらいならそう熱くもありますまい、と言われている気がした。


母という物を、私は知らない。妾は一人いたが、よそよそしい物だった。母は私を生んで直ぐ病に倒れたのだ。

母とはこのようなものなのかもしれぬと言う思いが、一層私の心を締め付けた。私は、黙って口を開けた。粥は、やはりただ熱かった。

それでも食は進み、気付くと杯は空になっていた。

馳走になった。気恥ずかしく、それだけを言うので精一杯だった。女は微笑み、いいえと行って台所へと去った。女の白い肌の中で、手だけが赤く悴んでいた。


眠くはなかったが、直ぐにでも横になりたかった。

乱れた布団を直そうとして、私はやっともう一度左腕が無くなっている事を思い出した。

不意に、ぽっかりと胸に開いていた穴が何倍にも広げられたような気がした。そこに落ちていくような寒気すら、背を這いずり回った。


また、負けたのか。その上、また情けをかけられたのか。

帰れだと。帰れるわけもない。あの笑みは、なんだったのか。


残った右腕で拳を握る。二度の負けの痛みは、一度目の比ではなかった。

腕などではない。もっと大きな、まるで空のように望外な物が、私の胸を妙に優しく、されど際限なく締め付けた。

それは染み込むと言う感じで、徐々にだが確実に、私の体を腐らせていくようだった。


二日経ち、三日経つ毎に女は段々とそわそわしていった。待っているのだ。私を運んできて、そのまま抱く余裕があったとは思えない。両方にだ。

晒しを取ってみると、傷は想像していたよりよっぽど綺麗に塞がっていた。ただ、全体に焼いた後がある。血を止めるためだったのだろう。

男の着物は、血だらけだったはずだ。臭いも強い。やはり、抱く余裕があったとは思えない。

泊まったのならばいざ知らず、男は何があろうと決して泊まろうとしないのだという。それでも、布団を一式余計に持っている所に、私は何とも言えぬ気持ちを抱いた。

その布団に、私は横たわっているのである。

女は障子を隔てた向こう側に寝ていた。部屋の数は二つで、取って付けたように台所や厠がぽつりとあった。

奴は、それを知っていてそれを使えと言ったらしい。自嘲気味に、女はぽつぽつとそれらを語った。

それでも、女は男を待っている。それは痛いほどに分かった。しかし、それから一週間経っても奴は現れなかった。


私は、汗ばんだ体と共に秘所から溢れた精を拭い取った。

朝から夜まで、二人きりだ。そうなるのに、余り時間は掛からなかった。これさえも、奴の思惑なのではないのか。

そう考えると腹ただしかったが、放って置くこともまた出来なかった。

ましてや、まだ腕の傷が癒えていない。最も、最中はそんなことを考える余裕など無かった。

自分が、まるで獣になったような気がした。やがて、突然宙の中に放り込まれる。

その感覚は、確かにおぞましいほどだった。


傷が癒えるまでだ。不思議と、事情の最中には腕の痛みに襲われることもなかった。

未だ馴れぬ感覚に溺れそうになりながら、その後には必ず自分にそう言い聞かせ続けた。


膂力が落ちぬよう。あるいは別の何かを堪える為に、私は蒲団に横たわりながらずっと右腕の拳を握り続けるのが日課となった。

何かとは、なんだ。それを言葉にする事が、私にはまだ出来なかった。


もう、傷は癒えかけている。







腕の傷が癒えた。あれからもう一月が経っていた。あれからとは、男に最後に会った日からだ。何時の間にか、年を越していた。

年明けは、女と二人でひっそりと餅を食う事で始まった。女が家を開ける事は無く、寝てる最中に運ばれるのか不思議と食材は常に台所にあるようだった。


腕は癒えたが、蜥蜴(とかげ)のように生え変わるわけも無い。ただ傷が完全に塞がっただけの事だ。度々襲って来る痛みも、軽い物が多くなってきてはいた。

それでも、夜中にはまるで腕があるように感じる。無い筈の腕が、突然酷く痛み出すのだった。

その痛みは痺れるようでいて、腕に剣を突き刺しぐりぐりと筋肉と骨を切り離すような筆舌しがたい物だった。

切って捨ててしまおうかと思うほどだが、斬り捨てようにも既に無いのだ。

眼を開けると、まるで忘れていたようにそれを思い出す。痛みだけあるのに実際にはない。まるで幽霊か幻でも見ているような気分に何時(いつ)もなった。

それでも、目を閉じていると実はあるのではないかと思ってしまうほど、その感覚は執拗なのだった。


真夜中。逃げるようにして、私は家を出た。礼すら言っていない。しかし、起きていた気がする。視線が、背に絡み付いてくるようだった。振り切ったのではない。怖かった。何時までも胸に残る、言い表せぬこの感覚が、やはりおぞましかったのだ。

立ち止まろうとする足を、何度も叱咤した。拳で何度も叩き、それでようやく脚は私の思う通りに動き出した。あえて礼を言わなかったことを、支えにした。

何時かは、礼を言いにまた会わねばならぬ。そんな邪な思いを捨てきれなかった事を、私はしばし恥じた。

しかし次の瞬間には、まだ横たわっていたほうが良いのではないかという後悔が何度も襲ってきた。


必ず、礼はする。しかしそれは奴に礼をした後だ。

それまでは、腕の痛みよりもよほど苦しいこの痛みも耐えて見せよう。

もはや、それしか己を諌める術は無かった。




山。

まだ夜も明けぬうちに、誘われるように入っていった。もう何も感じない。ただ、無い左腕が疼き、腰には大小を差していた。

そして、いつの間にか、一本の木の前へ立っていた。不思議と、周りには一本の木も生えていない。そこだけ、ぽっかりと空いているのだ。その中心で、杉だけが巨大だった。

ここはどこの山なのか。雪の一つも無い。とすると、南野の方の山々か。不意に自領の位置を確認しようと言う私は、やはり浅ましかった。


それを振り払うように、杉を見上げる。

これを斬れるか。不意にそう思った。斬れぬとも思った。その瞬間、斬ろうと決めた。

片腕でも、斬る。

以前なら、両手でも斬れはしなかっただろう。斬ろうとも、思わなかったはずだ。


無造作に構えた。左側が前で、殆ど相手に対して縦になったような構えになった。こうすれば、左手を添える必要が無い。腰と体で刀を振り下ろすのだ。

耳の横まで柄を持ち上げ、剣先は天を指した。二の太刀は考えていない。片腕で許されるのは、始めの一太刀だけだろう。


速さが落ちた分、一刀の隙は減った。覚悟も増した。腕の事はそう思う事にした。

以外にも、暮らすのに片腕で困る事は余り無いのだ。


気を内に溜め、一瞬で爆発させること。片腕で出来る事はそれだけだと思い定めた。

一刻半(三時間)。大杉と向き合っていた。斬れる気はしない。ただ、ひどく、圧倒されるような物がある。

何百年もの間だ、この木はここで根を張ってきたのか。この地で、何を見続けてきたのか。

二刻半(五時間)。剣先が振れ始めた。支えきれなくなって来ている。立っている事さえ危うい。凄まじい気だ。というより、ただ大きい。

斬ろうとするほど、その大きさがはっきりと分かった。まるで見えない壁が目の前に立ち塞がっているようだった。

逆に耐え難くなり、斬りかかろうとすると、踏み出す前に激しい何かに弾き返された。杉は、ただ静かに立っているだけだ。

三刻半(七時間)。杉が語りかけてくる。もう少しで、斬れると思った。杉が、語りかけてくるのだ。何百年と、此処で生きてきた。

それが、たかが二十年そこそこの若造に斬れるのか。斬る。斬られるとしたら、なぜ、今なのか。数百年も、私に斬られる為にお前はそこにいたのだ。

数百年生きてこられたのが縁ならば、ここで私に斬られるのも縁なのだろう。

更にニ刻。膝が、折れた。目の前が暗くなり、抗う事さえ出来なかった。大杉も、消耗している。だが私はもう指一本動かせなかった。痛みでも、辛さでもなく。

体全ての感覚が無かった。ただ、意識だけがはっきりと覚醒していた。はっきりしている分だけ、不気味でもあった。

乱れた口から舌を出すと、湿った土の味がした。それが、最後の感覚だった。


朝。

鳥の鳴き声で、それが分かった。日差しでもだ。

また杉と対峙した。直ぐに、杉が話し掛けてくる。まだ、お前は諦めないのか。お前には、私は斬れぬ。

何百年も、生きたのだろう。もう、良いではないか。これも、寿命だろうよ。

確かに、杉は弱まっている。巨大な気の中に、線のような隙さえ、今は見える気がした。

夏の雷雨でさえ、私を砕くことはならなかった。貴様は、何だ。


視界が暗くなった。ふっと、体が自然に動いた気がした。咄嗟に反応したという感じだ。

叫び声。溜めに溜めた物が口から溢れていった。鳥のような声だった。

だから斬った、という気もしなかった。ただ、身体の向きが逆になっている。そして、雷が落ちたような音がした。

私の視界も、暗くなった。それでも、倒れる事は無かった。

剣の鞘を杖のように土に刺し、体重を支えた。幾ら経っても、杉の木が倒れる音はしなかった。それでも、確かに斬っていた。


冬の雷。零れるように呟いた。木は、もう何も答えなかった。

杉は、雷が落ちたように、縦から真っ二つに裂けていた。


俺は、冬の雷。言い聞かせるように、そう呟いた。日は、もう落ちかけているようだ。幹に腰掛け、暫し眠った。







村に下りていた。

数歩、歩くごとに眩暈がした。まともな飯を、もう三日食っていない。その所為だった。何か食おうと思って、山を降りてきたのだ。

あの山に、獲物はいなかった。気に恐れ、弾けるように逃げてしまったのだと漠然と分かった。

足跡だけなら、幾つもあったのだ。動物は、人間よりよほど気に鋭い。

獣は、決して雷にやられたりしないのだ。


人だかりも出てきた頃、よろけた拍子に男にぶつかった。

大柄な男で、背中から肩まで這っている竜の入れ墨を見て、筋者だろうと思った。

細いのが、付き添うようにして後ろに立っている。こんなのも、いないわけではない。


「悪いな」

「悪いなだと。てめぇ、どこに」


血がすっと飛び散っていた。光に透けて、それは赤く光を放って見えた。

内臓がぐしゃりと地に落ちた。抜き打ち。生臭い臭いが熱気と共に舞い上がってきた。

左一文字に腕を走らせた。体が動いていた。信じられない物でも見るように、男が傷口を見詰めていた。

腹を斬っただけで即死はしない。右下から左上へ脇から斬りあげた。

まるで、肩を叩かれて振り返ったら突然旧友がいたような顔をして、男が崩れていく。白い骨が赤い肉から ひょっこりと顔を出していた。

そこで初めて、私は自分が刀を抜いている事に気付いた。その時にはもう、もう一人の男も声も上げず二つに割れていた。

どうやって斬ったのか。とにかく刀はそう動いていた。

二度、左右で僅かな差を付けて体が地面へ倒れる音がした。刀には、血すら付いていない。周囲に人はいなかった。何か大きな建物の塀が、ずっと続いている。


「また随分と物騒な男になった物だな。獣のようだ」


後ろから声がし、私はゆっくり振り向いた。奴がいる事は気付いていた。

だから、二人を殺したといっても良かった。というより、動いていた。

突然、私はまるで発作のように人を殺したことに、何の抵抗も感じていない事に気がついた。

大したことではない、とさえ思った。


奴は死体を見下ろしている。斬り口を見ているのだろう。違う。手を合わせているのだ。

それさえも、私にはうっとおしく見えた。どうせ、生きていても災いしか振りまかぬ輩だ。

奴の言う通り、まるで獣だな。自分で自分を笑いたくなった。飢えた獣。これ程恐ろしい敵はいない。

ただ、長い間だ飼い慣らされてきた獣だ。それでも、必死に檻を飛び出そうともしている。


「さっさと、抜けよ」


まるで夢の中にでもいるように、私の口は勝手に動いていた。


「そう急くな、明日だ。精々美味い飯を食べてくるのだな。
そんな青白い顔をして、まるで病人のようだ」

「ここで待っている」

私が言った。頷きもせず、男が来た道を戻り始めた。あの女の家の方だ、と不意に思った。と言っても、私は女の家がどこにあるのかさえ知らない。

この村なのかも知らないのだ。

今の私には、そんなこともどうでも良いように思えた。ただ、一つ思い出したことがあった。


「待て。お前は、誰に雇われたんだ?」

「それは、私を斬れたら教えよう」


男は立ち止まり、振り返りはせずにそう言った。




飯を食おうにも、この態で入れる飯屋はなかった。というより、金がない。何処かに落としたようだった。何時だったか、女にやったような気もする。

それならば、惜しいとは思わなかった。


仕方なく町を出て、山へ戻った。兎ぐらいは取れるだろう。取れなくとも、野草とか冬眠した蛇とか、なんとかなる。

腕を切られた山小屋にまで行けば、少量だが、まだ肉も残っているはずだった。一度村にまで下り、何となく場所の見当はついた。以外に、自領の近くの場所だ。


食い物など、どうにでもなる。

そしてそれが、私には似合いのような気がした。獣が生きるのは、町ではなく山である。







朝。着いたのは、殆ど同時だった。気が合うものだと思ったが、皮肉以外の何でもなかった。昨日斬った死体は片付けられたのか、血の跡だけが黒く残っていた。


奴の格好は、昨日よりも幾分整っているように見える。それが何故か頭に浮かばぬうちに、私は刀を抜いた。

奴も何も言わず、剣を抜いている。四歩間とって、立ち合う格好となった。


奴の眼には、やはり底が無い。だが、三度目の対峙で初めて奴の悲しみの眼の奥にあるものも見えた気がした。

達観し過ぎている。達観しているだけでは、たぶん駄目なのだ。

己の死さえ、過去る物としてみてしまう。それも、また一つの極意だろう。何百年生きようと、杉の木には出来なかった事だ。あれは、最後まで生きようとしていた。

それも、一つの極意だろう。


そんな事すらどうでも言いと思えるほど、男の眼はただ高く澄んでいた。

そして常に何かを、ただそれだけを必死に見詰めているようだった。

今この場になってなお、この男は私を見ていない。この男にとっては、死すらどうでも良いのだ。それでも、落ち窪んだ隈には男の疲れにも似た汚れが見えた。

死にたがっている。それが分かる。それでも、体は生きようと動くのだろう。

それが緩急となり、男の剣を面妖な物とした。これが、男の急に増える剣筋の正体だろう、と漠然と思った。

惑わされなければ良い。既に、男元来の速さには追いついている。いや、初速ならば抜いてさえいるだろう。男は、斬られたいのだ。だから、私を殺せなかった。

斬ってくれる男を、探していたから。しかし、本当にそれだけなのか。


対峙した。私は正眼。やつは地摺りの下段だった。始めて見せる構えだった。構えた奴自身が、酷く驚いたような顔をした。気が満ちてゆく。

一度奴が目蓋を閉じ、開いた時には奴の目が生きた物のように揺れた。それに、私ははっとした。私を斬ろうとしている。剣士として、私を斬ろうとしている。

その眼に、初めて私が映った。心地よい戦慄きが、私の背を這い上がった。たまらず笑みが浮かぶのを、私は堪えることが出来なかった。


奴から放たれた気を、私は逆らわずに受け流すようにした。

自分からは、気を発しない。奴もまた薄く笑った。全身を打ちつけようとしていた気が急に途絶えた。奴も、自身の中に気を溜めている。全てを溜めろ。一刀で斬り伏せろ。

奴よりも先に、斬ることだ。


潮合。弾けるように気が満ちた。互いに、それに逆らわなかった。

奴が動く前に、動くことだ。誘いも何も無い。ただ己の全てをこの一刀に賭けた。


空気が破裂した。振り下ろしている。目の前で、影が横へと動いた。斬ったのは、鞘だけか。いや、土までだ。

左の一文字、迫り来る刃。私はそれを見ようともしなかった。

気が、私の体を通り抜けていく。奴の顔が不意に歪んだ。それでも流れるように奴の腕が動いていく。

次は右一文字。川の流れを見るように、それが読めた。構わず、私は頭頂に上げていた刀を振り下ろした。

すっと、刃が振り抜かれる。すれ違い。残心の形のまま、私は立ちつくした。

肩の向きが逆になっている。男の奇剣は、ついに表れなかった。勝とうとしたからだ。それでも、男の本来の速さは私を上回っていた。


少し離れた所で、鉄が地に堕つる音がした。手応えは、まるで闇を斬った時のようだ。


「刀ごと、斬ったのか。馳せ違うとき既に」


男の目は、信じられぬようにまた虚空を見詰めていた。しかし、それが不意にまた私を見た。


「答えは、松夜(まつよ)に聞け。だが、聞けば必ず苦しむことになる。愚かな血を知ることになる」


酷く、遅く見えた。ぷつぷつと赤い点が顔に浮き上がり、まず鼻が割れ、一直線に血が噴出し、私を濡らした。冷たくも、熱くも無い。気、違う。刀を透かしたのか。

今までで最高の笑みを、男は浮かべた。それは嘲笑だった。


「おかしな物だ。勝とうと思ったときに限って、私は何時も負ける」


薄く笑いながら二つに別れてゆく奴を見ても、私は何も思わなかった。何も無い。ただ虚無感だけが私を包んだ。答えとは、雇い主のことか。松夜とは、あの女の事だろう。

そう言えば、名も聞いてなかった。互いに、その話題を避けていた。この男は、あの女の元に帰る為に勝とうとしたのだ。その事に、酷く驚いてもいた。

どうでもいい女、そう思い続けて来た筈だ。それとも、共にはなれぬ女か。やはり、ここにも何か事情があると思えた。しかし、もう終わった事だ。


二つになった奴が、殆ど同時に地面へ倒れた。右半身の握る刀を見て、私は束の間羨ましい思いを抱いた。

私は、最後まで刀を握って死ぬことが出来るのか。不意に、刀を抱いて死んでいた父の姿が脳裏に浮かんだ。私が、幼少の頃から鬼哭剣を与えられるまで使っていた剣だ。

そしてそれ以前に、父が青年の頃より遣い続けてきた剣だと聞いた。


風が束の間、血の臭いを消していった。不思議と、暖かな風だ。草履が凍ることはなさそうだった。


今度は、南へ行こう。海を一度、見てみたい。これからを考えるのはその後でも遅くはあるまい。


幸い、松夜の家はここから南にある筈だった。







戻ると、松夜は家の前に立っていた。戻るという感覚が、無性に懐かしい物に思えた。


「……死んだのね」

「私が斬った」

「片腕の男に? 鈍ったものね、あの人も。それとも貴方が鬼なのかしら。でも、何となく予感はしてた。
一度、帰ってきたのよ。貴方が出て行った後」

松夜は、前にあったときよりも荒んでいた。それも、仕方のないことかも知れない。奴も私も、最後まで松夜を女としてしか扱わなかった。


「奴の、名は?」

「淺埜龍之助。そう言ってたわ。それ以外は知らない。そう言えば、貴方の名前は?」

「淺埜剛蔵。龍之助は、父の名だ」

「え?」


どういう事だ。父は、確かに死んでいる。生きていたとして、齢は六十を超えている。父を知っていて、名を語っただけか。その考えは、奴に限ってはない気がした。

そんな眼はしていなかった。

しかし、もしや儂を斬れとはそう言うことだったのか。奴の剣は、どこも父に似ていなかった。ただ、強さだけなら互角だったかも知れぬ。技術だけならばだ。

それ以外の物を、奴は自分で殺していた。

いや、何かが奪っていったのか。それが、父の名に関係あることならば。そして、父の構えは地摺りだった。


立ち去ろうとすると、松夜が私の腕を掴んだ。甘い香気が鋭く私の心を掴んだ。しかし、私はもうそれを弾き返していた。松代が顔を伏せる。私は松夜を睨んでしまっているのだろう。

下を向いたまま、小声で何か言う。振れた髪が、冬の日に打たれ涙のように煌めいていた。


「まって、これだけ聞いて。貴方に刺客を向けたのは貴方の、兄よ」


尋常ならぬ者が、私の中を駈け巡った。


どういう事だ。どういう事なのだ。愚かな血とは、なんなのだ。

もはや、心の片隅に留めておくべき事ではないのかも知れない。


一度、戻る必要がありそうだった。父の儂を斬れと言う言葉が、繰り返し私を襲った。


振り返ると、松代が何も言わず分ったと言うように頷いた。






あとがき

百の御代であとがきってどうよとは思いますが、あなた様がこれを読んでいるという事はそれが許されたと言う事でしょう。

正直、疲れました。書き終わってこの話に一番思う事はそれです。そもそも軽い短編のはずがあれよあれよと進展し、はっと気付けばこんな有様。

ただ、たぶん妥協はしなかった。この話で二番目に思う事はそれです。たぶんというのが、いかにも弱気ではありますが一本の話を書き終わって妥協はしなかったと人に言えるのは今まで書いてきた中でこれが初めてです。

今回は、実は色々な物に挑戦してみていて色々と書きたい事があるのですが、何と言っても思い入れがあるのは浅埜領(主人公のいた領)の町並みでしょうか。

地図や場所の役割まで作ったのですが、何を思ったか剛蔵(主人公)のやろう、さっさと旅なんかに行きやがりまして、まったく役だたないではないか。

あの私にはあるまじきあの描写の密度はなんだったんだ、というのが一番ですか。全く後に役立っておりません。

あとしいて言えば六番、そして七、八、九と一番大切なクライマックスの所が心配ではありますが、もうこれしかありますまい。

これで駄目ならば、私がまだまだ駄目だったと言う事で、あれ以上は無理でした。最後の〇は、驚いてくれましたかな。 それともただなんだそりゃと思いましたか。

奴は斬りましたが、話としては無論これで完結しとらん訳です。そもそも何で1で男が襲ってきたのかも明かされていないわけですし。

それが続編になりますが、困った事に直ぐに書く気は余り無かったりします。何でか考えていないわけではありませんよ。

というか書いているうちに何でか本文中には書かずともせめて私は知っておかないと、話の作り様が無かったので。

次に何を書くかは決めかねておりますが、一体何時になることやら。今まで何度かこういう場で予告して全部裏切ってきた男なので、もうしない事とさせて頂きます。ただ、次回には寺で斬られた僧や蔵の残りの御二方、稲浦の秘密、父の秘密、鬼哭剣の秘密、更なる松代の悲劇などなど正にこれから盛り上がるんだ。という数々を含んでおりますが、一体何時になることやら。いっそのこと胸に閉まっておこうかなと思ってさえいます。


まぁとりあえず、とにかく「終わった」ようやくそう思えてきました。不思議な、寂しいような気持です。

もう少しこの気持ちを綴ってみたい所ですが、これからバイトに行かねばならぬのでこれで失礼を。リアルタイムで後書きを書いていることがあなた様にも伝わる事を信じまして。


でわ。

戻る

inserted by FC2 system