00.プロローグ


目が痛くなりそうな暗闇。

深夜の町は暗く、人気の失せた学校はなお静かだった。校庭ではじんわりと灯る外灯が誰もいない空間に向けられているが、 校舎に人工の光は宿っていない。代わって、月明かりが校舎を照らし、その屋上をスポットライトのように浮かび上がらせていた。

冷たい暗灰色の床。普段、人が立ち入ることのないその場所は、喧騒の代わりに汚れを蓄積させていったかのよう。そこは足元に蛍のような外灯を臨む高み。煌々と照る月の下、埃のたまった箱を覗き込んでいるのと大差はない。

時刻はすでに深夜を過ぎ、丑三ツ時と呼ばれた頃合。近代では常夜灯があり、また深夜営業の店があることから、そのような時間帯とはいえ灯りや人の姿は多いものだ。けれど、なぜだかここだけはぽっかりと穴が開いたように沈んでいる。

「――――野蛮になったものですね」

人の声は、屋上から聞こえる。叫びだしたい衝動を堪えているような、少女の声。

「――――気ままになっただけだろう?」

少女の声とは正反対に、溢れる猛りを抑えられないような、若い男の声。

それぞれ屋上の対角に位置しているのだが、互いの顔は影で見えない。若い男は古びた給水塔の影に。そして少女はもう一人の男の影に隠れている。

都合、顔をさらけだしているのは残った三人目だけということになっていた。その男が口を開く。

「やめておけ、S(エス)。素直に従えば事を荒げようとは思わん」

まるで記号のように少年を呼ぶ男。三十路を向かえたばかりのような年齢であろう、若すぎず老いすぎず、膂力に満ちた体格 である。彫りの深いその顔が険しさを増す。

「我々がどういった理由でここにいるのか、それを理解していないほど愚鈍ではないだろう? 『施設』がいつまでも甘い顔を見せていると思ってもらっては困るのだよ」

だが、少年はのどで笑ってみせた。

「俺は俺がすべきと思うことをやるだけだ。もう『施設』(あんなところ) の命令に従う気はない」

「世間知らずの貴方が、誰かのバックアップもなしに生きていけるとでも? 確かに普通の人間は脆い、貴方なら食べ物でも着る物でも好き勝手に奪っていけるでしょう。けれど、ここには『施設』にはない大きな社会が存在しています。自由なんてどこにもないのではないですか」

説得する少女。けれどその語気はどこか弱い。はなから説得など諦めているかのような口調であり、そんなもので心動かされるほど若い男は人の良い人間ではなかった。

「戻りなさい、今ならまだ私たちが口をきいてあげることもできます。何も起こしていない、今なら、まだ」

「残念ながら、とか、悪いが、なんて言葉すら使えないな。そんなことは有り得ない。俺はもう戻らないと決めた。それに……」

少年が歩を進めた。その体が影から月の下にあらわになる。

声のとおり、若い男だった。年のころはハイティーンだろうかと思わせる身長と顔立ち。短い髪は後ろへと流れるようにセットされ、成熟した顔をはっきりと魅せている。純血の日本人ではないのか、その髪は銀色。瞳もまた紺ではなく、熟成したワインを思わせる赤紫だった。

その様子に残る二人は身構える。少女がだらりとのばしていていた腕を上げると、その手には黒光りする拳銃が握られていた。

「後ろ盾はもう見つけた。『施設』の世話になる必要も、もうない」

それは究極的に目の前の二人は、そして『施設』は不必要だということを意味する。唯一この男を呼び戻せるきっかけとしてのカードは、あっさりと切って捨てられた。

そのことを理解した瞬間、少女とそばにいた男は懐から銃を抜いていた。もはや懐柔は不可能。ならば殺すしかないと、この目の前にいる少年は危険すぎると、教えられるまでもなく彼ら自身がよく知っていた。

油断などできない。隙などつくる余裕もない。少年が発した言葉尻をとらえるよりも早く撃鉄を起こし、

「――――――――ガハッ!」

引き金を引くよりも早く、少女のそばで男が倒れた。

一瞬の、まばたきするよりも短い時間をもって、少年は人を倒す。何をしたのか、近くにいた少女ですら見切れない。おそらく、倒れた男本人も気付く間はなかっただろう。

まぎれもなく、異常な事態だ。身動きなく、瞬時に、離れた相手を攻撃するなどできるはずがない。ならば、この現実をどう説明するかというと、それは至極簡潔な言葉で事足りるのだ。

なぜなら、その少年が持つのは特異な能力。常人より少し外れた人間である彼ならば、この異常事態も驚くには値しないのだ。そして、それを知るのは少女も同じ。

視界の端で、倒れた男を確認する。人外ともいえる方法で戦線を離脱させられたこの男もまた、常人ではなかった。それを一瞬でしとめたとなると、油断だけでは語りきれない強さを、この若い男は持ち合わせていることがヒシヒシと伝わってくる。

だが、少女は気遣うことなどしない。仲間がやられた、そのようなことに動揺してはいられない。チームで行動するのなら、たとえ残り一人になろうとも任務遂行を最優先に行わねばならないことは、彼女とて身に叩き込んでいる。

それでも、彼女は引鉄を引けなかった。やはり倒れた仲間が気がかりであったために躊躇したのではない。

ただ純粋に、引鉄を引くべき銃が、その手の中から消え失せていたからだ。

「くっ……!」

「残念だったな」

わずかとはいえ意識をそらされたその間を埋めるように、少年が少女に迫る。少女はすぐさま体を反応させようとしたが――――わずかに遅かった。

「あぐ!?」

くぐもった悲鳴。そして倒れる体。少年の拳は、二人の間を駆け抜けてきたその運動エネルギーさえフル活用して少女の腹部にめりこんでいた。

少女の息が詰まる。痛みは全身を麻痺させ、息で詰まった喉を吐瀉物が駆け抜けようとするが、幸か不幸かひきつった筋肉がそれすら許しはしなかった。

足元にうずくまる少女を見下ろす少年に、さしたる表情の変化はない。ただ、その口元だけが、ニィ、と引きつった。狂気を垣間見た少女が、さらに身を震わせる。

――――この男は狂っている。

「ふん、能力者(アーツ)の名が泣くな。俺を捕まえたいのなら、もっとマシな奴を連れてこい」

少年は、アーツ、と口にした。

それは一部の人間のみが名乗り得る、不名誉な称号。本来ならばありえない現象を引き起こす、異常な能力を宿した者の肩書きだ。この世界、今となっては珍しくもないこの能力者という存在も、こうして一歩道を踏み外せば最悪の凶器となってしまう 。

チリチリと風が鳴っている。少女の髪がわずかに揺れ、その目は伏せられつつも少年を見つめていた。

倒れた男は動かない。ただ赤黒い液体が流れ出していくのがわかる。胸をやられたか頭をやられたか、なんにせよもう命はないだろう。たとえ息があったとして、既に助かるような出血量ではない。

体を締め上げる痛みをこらえ、少女が顔をあげた。その顔は若い。少年と比べてもそう差はないだろう。どこか愁いを帯びた瞳と、痛みのためか固く結ばれた桜色の唇。銃を撃つなど似つかわしくない、どこかの街中を歩いていそうな愛らしい顔立ちが そこにはある。

月光を浴びて、その髪が銀色に輝く。肩まで伸ばした柔らかそうな髪。そして、そこだけ不釣合いに疲れを隠せていない、 紫水晶(アメジスト)のような瞳。彼女もまた、日本人離れした風体をさらしていた。

「見逃すのは一度だけだ。R(アール)、お前だけは一度、見逃してやる。 借りがあるからな」

月光の下、それまで残忍な笑みを浮かべていた若い男の表情が少し曇る。どこか辛そうでもあった。

「あ、貴方は……ここでは生きていけな――――ッ!?」

少年が、思い切り少女の腹を蹴り上げていた。肺の中身を虚空に撒き散らし、少女が地に伏せる。身動き一つ、しなくなった。

「――――そも、俺は『施設』ですら生きてはいけない」

少年はそれ以上言葉を発することなく、少女に背を向けた。光が届かない闇の中へ、溶けるように去っていく。


◆        ◆        ◆

その光景を見つめる、一対の瞳。

誰もいなかった校庭にいつからか現れていた人間の影に、屋上の彼らが気づくことはついになかった。

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