01.アメジストの瞳


▼01


「…………やな夜だったな」

寝不足でふらふらする額に手を置き、臣(しん)は独りごちた。ベッドに 寝転ぶその視界には天井が映っているのだが、網膜の裏には昨夜の光景がチラついている。深夜の学校と、月明かりに浮かび上 がる校舎。

その屋上で動く影に気を取られた臣は、プリントを握り締めながらも目を凝らした。そして、屋上のその端に人影が見えたとき、その輝く銀色の髪に思わず見とれた。

やがて、倒れこむ銀色の髪の女の子。ぞっとするような笑い声が聞こえたような気もする。なにか恐ろしくなって逃げ出した 臣は、慌てて部屋まで駆けもどったのだった。

「いや、つーか夢だろ? たぶん、きっと、おそらく……」

学校に忘れ物を取りに行ったことは確かだろう。帰ってから必死で書き上げた課題のプリントはぐしゃぐしゃになって床に落ちている。けれど、記憶は総じてあやふやだった。学校に行ったことも、そこで見たものも、帰ってきた道程も、発狂寸前になりながら解いたプリントも、ぼんやりしてうまく思い出せない。

というか、臣はひたすらに眠かった。夜が明ける頃にようやくプリントを仕上げ、そのまま倒れるように眠った気がするが、それすらよく覚えていない始末だ。

「夢……だよなぁ? なんか学校の夢をいろいろ見た気もするし……」

寝転んだまま腕組みで悩む臣。寝癖でぼさぼさの黒髪が触角よろしく四方八方に飛び出しており、その下できつく閉じられた目を含む顔立ちは、本来ならば整っているといえるものなのだが、寝起きゆえの腑抜け方により間抜けと称するが相応しい風貌となっている。

「夢、だな。うん、夢だ。だいたい夜中の学校に誰かいるなんて普通に考えてありえないもんな。うんうん、ないない」

かく言う臣自身も深夜の学校に侵入しているのだが、寝ぼけた頭はその事実を忘却処理完了させてしまっていた。

「臣、起きたかい?」

部屋の入り口から聞こえてくるメゾソプラノの声。そこには赤いエプロンをつけた若い女性が立っている。スラリと伸びる長 い脚にはブルージーンズ、エプロンから覗く上半身には飾り気のないシャツを身につけた、背が高い大人の女性だ。短くボーイッシュに整えられた髪は軽くブラウンに染められている 。二重の大きな目は吊りがちで、勝気な少女がそのまま大きくなった印象だ。

驚異的に見事なくびれをみせる腰に手を当て、実り豊かな胸を大いに強調させて、その女性は小さくため息をついた。

「アンタね、昨夜は大変だったろうけど、それにしてもまた抜けた 顔さらして……」

「……へ?」

今度は隠すことなく大仰に、彼女のため息が響いた。

「あ、いや、そういう管理人さんはまた朝から元気そうで」

「アタシはいつだって朝が早いからね」

彼女は、臣が暮らす若葉寮の管理人をしている女性である。臣に加えて二人の、計三人を世話する彼女は、名を碧 (みどり)といった。

もはや呆れた声を隠そうともせず、碧は続ける。

「アタシだけじゃないよ。雫(しずく)だって、奏 (かなで)だってとっくに起きだしてんだ。こんな時間までのうのうとしてんのはアンタくらい だよ?」

「こんな時間って、まだ目覚ましも鳴ってない……」

言って、枕元の時計を確認した臣が固まった。朝七時にいつもやかましく起こしてくれる、悩ましくも頼もしいこの相棒は、現在八時ジャストを指していた。登校時間を差し引くと、あと五分で遅刻である。

「な……な、な、ななななななんですとぉッ!?」

「だからアタシが起こしにきてあげたってーのに、のんびりしてていいのかい?」

「ダメ、ゼッタイ! ていうか今すぐ準備する! 着替える! 朝飯の準備よろしく!」

「あーはいはい。早くしなよ、飯も時間も待っちゃくれないんだから」

ひらひらと手を振りながら出て行く碧。臣はすでに寝間着を脱ぎ捨て、紺のズボンをはいていた。カッターシャツを洗濯済み 服の山から引っ張り出しつつ、放り投げておいたプリントを確保する。これを忘れては寝不足になった意味がない。

そうこうして顔を洗った頃には、銀色の髪の女の子のことなど、臣の頭からすっぽりと抜け落ちていた。


◆        ◆        ◆

結果として、臣は遅刻せずにすんだ。それは渾身の駆け足が功をそうしたわけではなく、臣の朝食が見当たらないために食べる時間が省けてしまったという涙ぐましい因果の賜物であった。若葉寮の朝食は待っていてくれないのである。

「くそー、腹減った…………奏の奴め……」

二年D組の教室で机につっぷしている臣。その口と腹が同時に文句を言っていた。まだ初夏の衣替えには早いので冬服を着ていたせいもあって、汗はかくは体力は消耗すると散々である。

「むふふ、寝坊するなんてらしくないじゃないか、臣。昨夜はお楽しみだったのかなぁ? いったいどこの誰をたぶらかしたのかなぁ? まさか雫ちゃんか! 許さんぞ貴様!」

「だーッ! 朝からうるさいんだよ。あと勝手な妄想で俺の胸倉つかむんじゃねぇ、このド変態が」

「誰が変態か」

朝のホームルーム直後だというのに威勢のいい声でいい感じに周囲をひかせているこの男は、名川 (ながわ)和弥(かずや)という。細身でやや長髪気味だが筋肉質な体格で、陰気ではなくむしろ覇気を持て余している男である。背も高く、顔も造りがいい。控えめに見てもかっこいい男なのだが、人間としてあまりにも大きな問題を抱えるがゆえ、まともに話をするのは家が近所で付き合いの長い臣くらいのものであった。

「変態と呼ぶな。変人なら大歓迎」

実に問題を抱えた人間だった。

和弥は臣を離すと、やおら拳を握って力説しはじめる。

「それよりもだ、雫ちゃんに手を出すことだけはまかりならんぞ。僕は比較的寛容な心を持っていると自負してやまないし、友人たる臣がどんな趣味にはしろうと追求はしないだろう。しかし、しかしなんだよ、雫ちゃんだけは別だ。不当な接近をしたならば、たとえ臣であろうと許されないぞ。泣こうが喚こうが五体倒地でひれふそうが、地の果て天の果てまで追いかけて、画鋲ダーツの的にしてやるからな。ちなみにヘソが最高点」

この高説が高らかと教室に響き渡ると、なんだなんだとクラスメイトが集まってくる。当然彼らは知っている。和弥が普段からどうにもダメな方向に全力疾走することと、その対処は臣がすること、さらにそのまま見物していれば愉快であることを。

「やめてくれ……地味に嫌だ。っつーかそもそも、俺が雫に手を出す云々の妄想をやめろって」

「お前が雫ちゃんの半径十メートル以内に入ることを禁ずッ」

とはいえ、雫とは臣と同じ寮に暮らしている中学三年の女の子のことである。しかも普通に仲がいいとあっては臣が遠く離れる理由はない。しかしそれ以前に――――

「お前が雫にご熱心なのはわかったから、よーくわかったから、頼むから、被害妄想を止めてくれ。俺は雫に恋愛感情を持ってないから」

「じゃあ何か、君はあの雫ちゃんと一つ屋根の下で暮らしているのに邪な感情一つ抱いたことがないと? ありえん! かの仏陀でも瞑想を中断して流し目を送るというのに!」

「近付くなと言った直後に発破かけてんのか!? お前は俺にどうしろっつーんだ!」

「彼女をつくれ」

ぴしゃりと和弥は言い切った。なぜだか遠巻きに様子を伺っていたクラスメイトたちが息を止めている。無意味に張り詰めた空気の中、臣が口を開いた。

「……………………は?」

「いや、だって、彼女ができた臣なら、雫ちゃんと仲良くしたところで、それは友達とかそういうレベルを逸脱しないわけじゃないか。僕も心安らかに枕を高くして眠れるってもんだ。二股? 浮気? はん、臣にはそんな甲斐性ないし、どっちかって言うと一途な人間だと思ってるんだが…………そこの君はどう思う!?」

唐突に指差された野次馬男子A。盛大に驚くと共に、ざざざっと自分の周囲から人が離れていくことにまた驚き、そして和弥に向き直って肩を落とした。

「あ……いや、そうなんじゃないかなぁ」

「いいねいいね君はわかってるね! よーし僕の弁当から沢庵を一つ分けてあげよう」

「いや…………遠慮しとくよ、ハハ、ハ……」

乾いた笑いの男子Aは味方ではないと判断した臣はさっそく視界からはずす。そして目下最大の敵はこれぞ好機と攻め立ててくるのであった。

「というわけだ。臣、今すぐ彼女をつくれ。そのへんからテキトーに見繕ってこい」

「史上最低の馬鹿だな、お前は! さっきからおとなしくしてりゃ好き勝手言いやがって」

「なんだ、臣は女嫌いだったか? 残念ながら僕はのんけにつき 相手はしてやれな――」

取り巻いていた女子連中がどよめいた。なんというか、熱気が生まれている。

「あーもう!! 和弥相手に会話が成り立つと思った俺が馬鹿だった! 誰がゲイだ! 俺はお前と違ってノーマルな人間だってーの!」

「なら、彼女の一人くらいつくってみろ。もうすぐ夏休みだってやってくるんだ。高校二年にもなって寂しい休暇を過ごすのか? アバンチュールに夢はないのか?」

「うるさい、あーうるさい。つくれるんだったらとっくに彼女なんてつくってる。簡単にいかないから世の中には男があぶれてるんだよ」

取り巻いていた男子連中がどよめいた。中には感涙している者までいる。

「そうだ、男と女が同数だなんて俺は信じないぞ! なにが平等だ!」

「あきらかなる女尊男卑! この不平等社会に鉄槌を! むくわれない男に愛の手を!」

「ちょっと男子、勝手なこと言わないでよ!」

「いやー! 誰? 誰ッ!? 今、私の手握ったのー!?」

「変態よ、変態がいるのだわ! これだから男なんてお断りなのよ!」

「なにてめー、男にだって選ぶ権利くらいあるぞ!」

いつの間にか、場外乱闘が発生していた。男子対女子の壮絶なる舌戦が飛び交うここは、すでに一時間目を目前にひかえた教室ではない。ルール無用のコロシアムであった。

そして、その最中であまり状況を理解していない男が、一人いた。

「ふふふ……ところで臣、雫ちゃんと昨夜なにがあったか、そろそろ吐いてもらおうか」

はやく授業が始まってほしいと、臣は心の底から深く、ふかーく思った。

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