01.アメジストの瞳


▼05


翌朝。今日は目覚ましが責務を果たしてくれたらしく、臣はいつも通りの時間に目覚めることができた。時間に追われることのない、余裕のある普段の朝。朝食の心配をしなくてもいいという安堵を噛み締めながら着替えれば、自然とその顔もほころんでくる。

が、その余裕が単なる寝ぼけによるド忘れからくるものであることを、臣は気付かない。そう、この寮の「普段の朝」がいかなるものであるかを――――

数分後、その痛恨のド忘れは、いともたやすく臣の身を翻弄するのであった。

「ちょっと待てーッ! それは俺の卵焼きだ! ちゃんと頼み込んで砂糖抜きのダシまきにしてもらったんだから間違いないんだ!」

「食べてみなきゃ味なんてわからないでしょ。どれどれ――――ん、甘くないなぁ?」

「うわぁぁ! 食った、食いやがったよこの女! 昨日も俺の飯食っといて今日もか!」

「早い者勝ちがここのルールでしょ? 忘れたとは言わせないわ」

ここは若葉寮一階にある、十二畳の広い和室である。管理人を含めても四人しか生活していないこの寮では、食事など何か集まるときにはこの和室を利用している。部屋の隅ではテレビが朝のニュースを流しているが、それを見ている者は誰もいない。なぜなら、ここは弱肉強食のサバンナだからだ。

「奏の鬼! 般若! 食って食ってぶくぶく醜く太ってしまえばいいんだ!」

「……レディに対して失礼なことを言ってくれるじゃないの、このトーヘンボク」

ミシリと空気も音をたてそうな視線を送って、奏はそっぽをむいた。ポニーテイルがふわりと舞い、音符を模した黄色い髪留めがゆれる。グリーンのリボンがついたブレザーの制服は三年生の証で、彼女は臣より一学年上だった。臣に暴言を吐かれてもそのスタイルは姉譲りに良いとしか言いようがなく、その姉はこの寮で管理人をしている碧その人である。

高速で皿の上を行き交う箸。目に見えて消失していくダシ巻き卵と筑前煮。火のついていないタバコをくわえ、呆れ顔で二人を眺める碧。残る一切れのダシ巻き卵を死守すべく箸による攻防を繰り広げる臣。守る合間にも食事は忘れないあたり、場慣れしている。

そして、そんな喧騒を我関せずとばかりに黙殺しつつ食事を続ける、一人の少女がいた。薄い茶髪がシャギーがかっているのが印象的な、小柄な体格。奏とは少し違う白い制服に青く刺繍された校章が宿っている。

「何してんねんやろうなぁ、毎度毎度」

被害が及ばない机の隅で、自分の分だけあらかじめ確保してきたおかずを頬張り、その少女は呟く。彼女の名は雫(しずく)。この寮最年少の中学三年生にして、関西から引き取られる形で引っ越してきた、碧と奏の妹である。

もとよりこの寮に住む四人には親がいないという共通点があるのだが、雫だけはさらに事情が異なる。碧・奏と血を分けた姉妹であることは確かなのだが、出生時にトラブルがあり、なぜか一人だけ関西の保護施設に引き取られることになってしまったのだ。碧がその事実を知って引き取りを願い出たのが今から十年前。雫が小学校を卒業した二年前になってようやく許可されたという次第である。

そして、和弥が必要以上に話題にだしてくる「雫ちゃん」とは、彼女のことであった。

「やっぱり卵焼きはしょう油やと思うんやけどなぁ」

「否! 雫、それは邪道よ。糖分の必要性が理解できてないわ」

「いや、出汁のありがたみがわからねえなんて、日本人として認めるわけにはいかん」

こそっと漏らした一言にやたらと食いついてくる奏と臣。相容れぬものがあるらしい。

「兄ちゃんの言うこともわかるんよ。日本人やったら出汁としょう油は料理の基本やし」

「いーや、お前はしょう油入りの卵を卵焼きにしようと目論んでいる! 出汁巻き至上派の俺としては黙って見過ごすわけにはいかんのだ」

「だから糖分を摂れってのよ。糖分はエネルギー効率もよくて、しかも甘いのよ!? これを食べずして食を語るなんて冒涜だわ」

箸を折れんばかりに握り締めつつ力説する二人。それに呆れたかのごとく、雫は静かに箸を置いた。やれやれと、首を振る。

「しょう油こそ料理の基礎やで! 日本の伝統、大豆発酵食品を舐めたらあかん! あのしょっぱさが食卓にないなんて人生の八割は損してることと同じや!」

言い切った。やおら立ち上がり、拳を握り締めて宣言した。ちなみにうどんを例にとればわかりやすいように、関西はしょう油よりむしろ出汁に重きを置いた料理が主流である。

「な、なんて迷いのない……」

「雫も心に熱き血潮を宿しているんだな……」

神々しさすら感じられる堂々とした雫に、思わず奏と臣はひるんでしまう。照れたようにストンと座りなおす雫。その顔に充実感が満ち溢れているのはいかんともしがたいところであるが。

そこで、傍観を決めこんでいた碧がパンパンと手を叩いた。

「はいはい、贅沢言わない限り食い物なら作ってやるから、とりあえず時計見な」

壁掛け時計は、あんまりのんびりできない時間を指していた。

具体的には、昨日臣が起きたくらいの時間である。

「奏と雫は歯磨き、臣はアタシと一緒に片付け。はい、動いた動いた」

「うえぇ? 俺って今日の当番だったっけ?」

「当然。手伝い当番は交代制。昨日が雫だったんだから、今日はアンタ」

「ま、そういうわけだからー。ヨロシクね、臣」

「ウチらは先に準備しとくから。今日は遅刻したらあかんよ、兄ちゃん」

ひらひらと力なく手を振りつつ見送ると、碧に思いっきり腕を引っ張られた。思わずよろけそうになって、なんとか踏みとどまる。その手に、どさりと食器が乗せられた。

「アンタものんびりしてらんないんだからね、一気にまとめて運ぶよ。なに、男の子ならこれくらい持てるだろ?」

「あー、ちょ……」

抗議する間もなく、朝食が乗せられていた四人分の食器が臣の手の上に積み上げられていく。ドサドサと洗濯物を放り込むように。容赦などまったくなく。

「―――――あー、そういえば」

重さに悲鳴を上げる上腕二頭筋。辛く厳しい現実から逃避するため、臣の脳はまったく関係ないことを考えよう考えようと動き出す。

「俺、別に昨日は遅刻してないんだけどな……」


◆        ◆        ◆

臣たちの通う学校は、小学校から高校まで直通のエレベーター式私立校である。その校舎もそれぞれが隣接して建っており、ちょっとした大学のキャンパスのよう。ちなみにグラウンド・体育館・プールなどの施設は全て別に用意されているという贅沢っぷりだ。

無論、授業料もそれなりである。保護者のいない臣たちが通えているのは、学校から奨学金を出してもらっているからにすぎない。その返済も卒業後に学校関連施設で働くことでまかなう、という契約がなされている。碧も同じ学校を卒業しており、学校付属である若葉寮の雇われ管理人をしながらお金を返しているという次第だ。

町の中心部から辺縁の山地へと向かうバスを見送りながら、臣はてくてく歩いている。その前では奏と雫が並んで談笑している。学校が山際に建っているため、毎日の通学がいい運動になるのか、年頃の少女二人は、臣のひいき目をなしにしてもスタイルがいい。

見慣れた光景ゆえに何も思うところはなかったのだが、それを良しとしない男が一人、そこに出現していた。

「朝から目の保養だ。生足眼福、生足眼福」

「か、和弥!? いつの間に俺の背後に……」

気配も感じさせず登場した和弥は、不敵な笑みを浮かべつつ臣と並ぶ。その視線は前方に向けられたままで、眩しいものを見るように細められた目が不穏だ。

「いやぁ、今日も雫ちゃんは神々しいね。これだけで今日という日は花丸だ」

「毎回思うんだけどな、奏のほうは無視なのか?」

「君は失礼だな。薔薇の花と百合の花を比べて何になる? 並び咲く花を褒めているというのに、その一端だけを見て何を語るというのか。ああ人生は無常」

「いやいや! 少なくともさあ、お前、雫しか褒めてなかったよな」

「いやお二方とも美しい。毎朝拝見するだけで視力が上がりそうだ」

和弥は全力で臣を無視した。

学校が近付いてきた。徐々に生徒の数も増え、周囲がざわざわとした喧騒に包まれていく。小中高と少なくはないクラス数の人間が集まる登下校の時間帯はちょっとした人ごみではすまない。そのため道路が新設されたり学校の入り口を増やしたりと並々ならぬ努力が行われていたりする。その甲斐あってか、今ではようやく普通の学校レベルの喧騒ですむようになってきたのだった。

ちらほらと見知った顔が通り過ぎていくのを横目に、和弥の口は止まらない。

「それにしても臣、今日はちゃんと起きたみたいじゃないか。学生っぽくていいね」

「昨日は目覚ましがボイコットしやがったんだよ。絶対に奏の仕業だ。悪の契約による策略だ」

前を行く奏の耳がぴくんと動いたが、幸か不幸か臣はそれに気付かない。

「あと、朝飯まで食い尽くしやがって。おまけに今朝も俺のおかず横取りされたんだぞ」

「奏先輩にそんなに食いしん坊属性をつけたいのか? あれだけスリムなのに大食いだとは信じがたいものがあるんだが」

「見てくれに騙されるんじゃない! あれは米とおかずとデザートは別腹だと言う女だ。いわば掃除機だ――――ぶばっ!?」

高速で飛来した学校指定のバッグが臣の顔面を直撃していた。いわずもがな、奏のものである。ちなみに、教科書の類をこまめに持ち帰る奏のバッグは、相当重い。

「だーれが掃除機だってのよ。失礼しちゃう」

ざわざわと、この光景を目撃した周囲の無垢な人間が騒いでいるが、奏がひと睨みすると水を打ったように静かになった。そして、何も見なかったと己に言い聞かせるかのように足早に立ち去っていく。

「アンタだってバクバク食べてるじゃない。それに、もともと私たちみたいな人間はたくさん食べるって言われてるでしょ」

「ああ、アーツだからですか」

和弥がぽんと手を打った。この男、目上の人間に対しては言葉と態度を正すのである。

アーツとそうでない者を区別するには細胞内のミトコンドリアの数を調べればいい。このミトコンドリアというものは、食べた栄養分を活動エネルギーに変換するための器官なのだが、アーツはこの数が多い。

「ミトコンドリアが多い分、余計に食べるって話やね? ウチも聞いたことある」

超能力のエネルギーを作り出すのがこの余分なミトコンドリアなのだが、雫の言う通り、その余分なエネルギーへ変換されるための栄養をとらなければならない。つまるところ、アーツははすべからく大喰らいなのだ。

そして、臣たち若葉寮の面々は、皆が超能力者――アーツなのであった。

「いやぁ、僕もアーツだったら実感がもてたかもしれないんですが、血液検査ではシロだということになっていまして。残念なことです」

「あ、ちゃんと検査してるんや。最近は生まれたときに血液検査があるみたいやけど、ウチらは幼稚園のときくらいにやったんよ」

「たまたま導入が早い病院で生まれたものだからね。しかし雫ちゃんの血を抜くとは、その医者め……うらやま――いや、許せんうらやましい!」

「和弥、漏れてる漏れてる! 隠せてねーよ!」

アーツ判定のため、生まれた赤ん坊は血液検査を受けることになっている。だが少し前までは、小学校を卒業するまでに任意で検査することになっていた。これは、能力を使えるようになる時期が、第二次性長期と重なるためである。

「アーツはお腹減るんが早いって、どっかの偉い人が言ったんやもんね。それはしゃーないよ」

「それにしたって、奏は食いすぎだろ! あと痛いから、そのバッグ痛いから!」

「レディへの暴言にはこれくらいの対処がちょうどいいのよ」

「そーやで兄ちゃん。女の子にそんな話はタブー、常識やん」

「だよねー雫ちゃんの言うとおり! 臣はデリカシーってものがわかってないのか!」

鼻の下を伸ばした和弥が敵に回った。味方にしていても役にはたたないが、こう変わり身を見せられると無性に腹が立つ。

「和弥、あとで覚えとけよ……」

「ケンカはあかんでー」

ムスッとした臣の前に小柄な姿が立つ。頭一つ分は小さい雫が、上目遣いに見上げている。形のいい眉がへの字になっていて、怒っているといるより可愛らしい。

「臣、雫ちゃんを怒らせるということは僕をも怒らせるということを忘れたか!」

「俺はお前に怒ってんだけどな……はぁ、なんかもうどうでもいいや」

腕時計を見てみれば登校時間もタイムリミットが迫ってきている。四人は少なくなってきた人波の後ろにつくように歩き出した。

学校の校門が近付いてくる。人が吸い込まれるように入っていくその場所を目前にして、雫が三人の一歩先に飛び出した。

「それじゃ、ウチ行くね。姉ちゃんらも遅刻せんようにねー」

小中高の学校群は隣接しているのだが、その敷地は個別だ。つまり校門も校舎も別々のところにあり、この登校ルートでは高校が一番手前となっている。雫の通う中学校はさらに百メートルほど先にあるのだ。

「いってらっしゃい、雫。アンタも遅れないようにね」

「一時期の別離とはいえこの凡夫は涙を禁じえませんが、ここで別れの接吻を――」

本当に涙を流している和弥を、臣と奏は全力で昏倒させた。鳩尾と延髄へ同時に拳を叩き込まれると、さすがにこの男も気絶せざるを得ないらしい。「あわわ……」と見知った奇人を心配する雫に向かって臣は、

「――――いってらっしゃい」

ひきつった笑顔でそう告げた。

そこから何を読み取ったのか、雫も深く追求はしなかった。慣れ、というやつである。

元気に手を振りながら去っていく妹を見送りつつ、奏はぽつりとこぼした。

「臣、なんでこんなやつの友達やってんの?」

「言わないでくれ。俺も考えたくないんだ」

と、完全に昏倒していた和弥の目が突然クワッと開き、バネでもしこんであるような奇怪極まりない動きで直立姿勢のまま起き上がった。周囲にいた無害な生徒たちがぎょっとした顔でそれを見つめている。……いや、見てしまったと悔やんでいるのだろうか。

「二人ともひどいな……僕が何か悪いことをしたか!?」

「あ……いや、それにしても、相変わらずアンタの身体能力ってホント奇抜ね……」

「ふふふ、これも日頃のバイトの成果です。いいですよ、土方の現場。飛び散る汗、滴る汗、サウナのような汗――――あれぞ男のバイトです。汗をかき、筋肉がついて給料までもらえるのです。すばらしき楽園ですッ」

そう言って、力こぶを見せびらかすように腕を振り回す浅黒い男。ずいぶん残り少なくなっていた観客も、とうとう正視に耐えられなくなったのかそそくさと立ち去っていく。

「先日、ぶら下がり健康器を買ってみたのですが、あれはいいものですよ。通販特典で今ならストレッチビデオが三本も付いてきて送料無料という豪華っぷり! お勧めです」

「え、遠慮しておくわ……」

さすがに毒を吐く気にもなれず、奏は似合わない愛想笑いでごまかしている。

そのまま校門をくぐった三人だったが、ここで臣が実に余計なことを口にした。

「いいじゃん、奏も筋トレ始めればさ」

「ほほぅ、それはつまり私にボコボコのぐちゃぐちゃにされたいと、そうマゾの臣は言ってるわけだと解釈していいのね?」

「はん、ちっとは運動しないとそのぷよぷよの腹がみっともないってことだよ」

「……………………」

沈黙。奏が押し黙る。俯いたその顔は影に隠れてよく見えない。

が、臣は反論されないことをこれ幸いとばかりに口が軽くなっていく。

「だいたい普段からして食っちゃ寝食っちゃ寝してんだからさ、そりゃ少ない筋肉も脂肪になってくっての。まあただでさえお肉たっぷりの奏のことだから、そりゃもう高級和牛みたいな霜降り肉になってるに違いない。いやいや、もしかしたらもう牛脂(ヘット)の塊になってるか? はっはっは、体脂肪率百パーセント! みたいなさ! ……なんだよ和弥」

「……いや、せめてもの情けだ。先生には病欠だと言っておいてやろうと思ってな」

「病欠? 誰が?」

「…………………………………………しーんー……」

地の底からマグマが競り上がってくるような、もしくは雲の中をかける雷鳴の轟きのような声だった。もちろん奏だった。もちろん怒っていた。

その目はらんらんと赤い光を発し、逆立った髪が蛇の如く蠢き、鋭く尖った爪が心臓を狙ってきている! そんなイメージが臣の脳裏をよぎる。まさに般若。

「ひぃぃぃぃっ!? 何をそんなに怒ることがッ!?」

「どの口がそんな世迷言を吐くかッ! 天誅ーッ!!」

見事すぎる拳の一閃が臣の顔面に炸裂した。腰の回転、力の溜め、身体のバネ、拳の握り、どれをとっても完璧である。

素晴らしきことに、狙いたがわず臣の顎から上へと振りぬく右アッパー。

そしてふわりと重力から解放されたかのように臣の体が浮き、そのまま後ろへと倒れた。1R3秒KOである。

「奏……前から言おうと思ってたんだが…………お前、人体の急所を狙うの、ためらわなさすぎ……」

ぴくぴくしていた臣だったが、その一言を残すとやがてぱたりと力が抜けた。

「臣……冥福を祈る」

のっしのっしと歩き去っていく奏の後ろで十字をきる和弥。その和弥が校舎へ入っていったとき、朝のチャイムが厳かに鳴り響いた

臣はまだグラウンドで大の字のまま。無論、遅刻確定である。

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