01.アメジストの瞳
▼06
彼女がそこに立ち寄ろうと思ったのは、ほんの気紛れだった。
まさか同じ場所に何度も姿を見せるほど単純な相手だと思っているわけではない。ただこうして日中に出歩く人間ではなかったから、どこかで身を潜めているだろうとは考えていたのだ。たまたまその心当たりがなかったから、こうして再訪してみる気になったのかもしれない。
それに、正直なところを言えば、残してきた彼のことが気にかかっていた。放置しておくわけにもいかない。が、場所が悪かった。日中に人が大勢出入りする建物というのはどうもまずい。かといって夜は捜すべき相手がいる。どうにも時間がとれないのだ。警察に通報というのも好ましくない。素性が公に晒されかねない事態は避けたかった。
結局、彼女は決断せざるをえなかった。仕事が最優先だ、可哀想だがもうしばらく屋上で待っていてもらうしかない、と。
だというのに、わざわざこうして来てしまったのは、やはり手詰まりだからか。いや、それだけではない、そこまで人としての良心を捨てたつもりはないと思いなおし、彼女は歩を進める。
そこは異様な場所だった。彼女の常識では、学校というものは二キロ四方にわたる敷地をもつものではない。だというのに目の前にあるものは、どうみても学校の校舎である。広大な敷地には建物がいくつも造られている。密集しているという印象がないのは、グラウンドが建物を隔てているからと、裏手がそのまま林として山に飲み込まれているからだろう。それら山際のコンクリートボックスは、私立と謳うにはいささか趣のない校舎である。
大量の生徒が流れ込んでいく様を見届けた後、人気の失せたグラウンドに忍び込む。長居するつもりはなく、屋上までたどり着ければ目的は達成したも同然だった。そも、気の迷いに目的などない。うまく人目をかいくぐれるのであれば彼をなんとかできればいいと、その程度のつもりであった。
――――それを目にするまでは。
最初はぎくりとした。誰もいないと思っていたグラウンドに横たわる姿。制服を着ているからここの学生だとは思う。……なのに、どうしてこんなところで寝転んでいるんだろうかと、次に疑問に思った。
きれいに大の字になって倒れているその男子学生が何を意味するのかわからず、つい興味を示してしまう。なにかの罠か? それとも被害者?
先日の夜の出来事が脳裏によみがえった。この近くでS(エス)を発見できたのは、運が良かった。そのままこの校舎の屋上に誘い込んだまではよかったのだが、あの男は、やはりというかなんというか、一筋縄ではいかない人間だった。
他の誰でもなく、この自分が追跡に選ばれたのは納得がいっていた。Sに一番近い人間だという気持ちはあったし、うまくすれば説得して連れ帰ることもできたろう。そう、思っていたのだ。けれどその思いは見事に破綻し、取り逃がしてしまった。
あの調子では連れ帰ることなど叶わないかもしれない、と思う。しかしなによりまずかったのは、Sがあの場で彼を攻撃してしまったことだ。自分ひとりではこの仕事もうんと難しくなるだろうし、Sにまたひとつ業を負わせることにもなった。もっと平和的にいかなかったものかと、いまだに悔やまれてならない。
少女は唇をかみしめる。
一緒に動いていた、彼を思い出す。それほど親しかったわけではないが、今回は自分から志願して同行してくれていた。その本心がどこにあったかはわからなかったままだが、やはり、その事実はある種の気負いとして彼女を駆り立てていた。
一旦体制をたてなおして出直せばいいのかもしれない、けれど、その間にもSの消息はつかめなくなっていく。時間をかけるわけにはいかない。そしてなにより、この手でSをとらえることが倒れた彼にとっても本懐になるはずだと、胸に強く念じている。
だからこうして、ここにも戻ってきたのだ。少しでも可能性のあるところはしらみつぶしに。手がかりだけでも残っていればそれでいいと。
それが昨日一日かかっての、彼女の決意だった。
だというのに、肝心の様子をうかがいにきた矢先に、こんなところで倒れている人間を見つけてしまうのは運が悪いというべきなのか。
「なんにせよ、Sと関わりがあるかもしれない……」
つぶやいたその声は、授業開始のチャイムでかき消された。このグラウンドに誰かが出てくる気配がないのを確認して、彼女はその怪しい生徒に近づいて行った。
見たところ、その生徒は彼女と同年代くらいだろう。特別男前とは言い難いが、鼻筋のとおった顔立ちをしている。見事なまでに大の字になっている、その顎が赤くなっているから、そこに一撃をもらったのかと推測した。これがSによるものなら、体のどこかに穴があいて血を流していることだろうから、どうもこれはSとは無関係な事態のようだ。
そっと頚動脈に指を伸ばすと、確かな脈の感触がある。生きている。そして特に接近しても反応がないということはつまり、この学生はグラウンドのど真ん中でノックアウトされているだけだということが、ようやくわかった。
「…………」
関係なないことがわかったのは、まあよかった。しかしSと関係ないならないで、朝からこんなところでストリートファイトでもあったのかと首をかしげたくなる状況ではある。最近の学生というのはひどく荒れているものなのかとまで考えてみた。それとも学校をサボる、新手の技術だろうか、とも。
とにかく、サボりにしてもケンカにしても、こんなところで倒れているのはよくないことだろう。サボりならば教室へ、ケンカならば保健室へでも行くよう諭してみるべきだ。
規律を守ることを是とする彼女としては、それは至極当然の思考であった。そして、軽く肩を揺さぶってみる。
「もしもし……起きてください」
ガンガンジンジンする頭と顎の痛みで、臣には何もかもが遠くから聞こえてくるようだった。加えて身体を揺すられるものだから、乗り物に酔ったみたいに脳みそがグルングルンしている。
「もしもし……起きてください」
起きてくださいって、俺はもうとっくに起きてるよー、などとよくわからないことが頭の中を駆け巡る。起きて学校に来て、それから奏に――――
「そうだ! 奏の奴なんてひでぇ事を!」
がばっと跳ね起きた。
「ひゃっ!?」
なぜか真っ暗だった。目を開いているのに真っ暗とはこれいかに。しかもなにか甘い匂いがして柔らかくてあったかくてちょっと気持ちいい。
「ちょ――離れてください!」
聞いたことのない声とともに臣は突き飛ばされた。またしても地面に倒れてしまったが、力が弱かったおかげで今度は気絶せずにすんだ。
何事かと再度起き上がってみれば、そこには知らない女の子がいた。両腕で胸を隠すように抱きしめ、細かく震えている。その顔は真っ赤だった。
知らない女の子だった。だが、見知らぬ女の子ではなかった。
陽光を受けて白銀に輝く髪。肩までの髪はさらさらと揺れてその少女の顔をくすぐる。その瞳は綺麗な薄紫色で染め抜かれていて、まるで紫水晶(アメジスト)に覗き込まれているかのよう。ただ、目尻にじんわり涙を浮かべていた。
「あ、あれ……? 君は――――」
君は誰? そう訊こうとして、言葉に詰まった。その顔、その髪、その瞳……見覚えがないはずがない。見間違うはずがない。「あの子」だと、すぐに気がついた。
一昨日は屋上にいるところを、そして昨日は商店街にいるところを見た、あの銀色の髪の女の子だ。どうしてこんなところにいるのかはわからないが、その容姿は見間違えようがない。
何をしているのかとか、屋上では何があったのかとか、臣の頭の中にはいろいろな言葉が湧き上がっては混ざり合い、とっさに出てきたのは、なんともつまらない質問だった。
「えっと、もしかして昨日すれ違った?」
「知りません!」
当然だった。臣からは見覚えがあっても、肝心の相手が臣を覚えているはずもない。
それにしても拒絶的な声である。まるで痴漢に道を尋ねられたかのようだ。臣はいささか傷ついた。
「貴方こそ、こんな時間に何をしてるんですか。もう授業は始まっているようですけど?」
「ああいや、これには深くて浅い訳があるんだけども、要はいわれなき暴力の被害者っす」
「被害者? 学校で危険なことをするのはどうかと思いますけど」
「いやまあしかし――――って、そっちこそどうしてこんなとこにいるんだよ。ここ、学校だぞ。部外者は立ち入り禁止だろ」
「はい?」
スカイブルーのシャツと白いスウェットは明らかに私服。見たところ年も臣とそう変わらないようだ。基本的に生徒でも教師でもない人間は敷地内進入禁止である。
彼女はまず右を見た。そして左を見た。さらに上を見た。つられて臣も上を向けば、まぶしい陽射しが校舎を照らしている。
「もしかして、うちの生徒の家族の人?」
「え? いえ、そうじゃないんですけど……」
怪しい。怪しむなというほうが無理なくらいに怪しかった。
この学校は全寮制というわけでもなく、自宅から通学している生徒も数多い。また、その親族ならば電話一本で立ち入り許可もすんなりおりる。兄弟別々の学校に通っていれば、こうして訪ねてくることもありえないことではない。
が、彼女は自分で否定した。まさか教師の娘なのだろうかとも思ったが、外人と結婚した教師の話などまったく聞かない。目の前の銀髪紫瞳はどうみても生まれつきだろう。
となると、あとは消去法。この子の肩書きは自動的に不法侵入者となる。
斜めになっていく臣の視線に気付いたのか、だんだんと目をそらしがちになる少女。これはいよいよもってきな臭くなってきた。
「なあ、名前はなんてーの?」
胡散臭げに臣が尋ねる。何かあったときのために、名前くらいは訊いておかねばならないだろうと思ったのだ。たとえどんな美少女だろうと、何をしでかすかわからない。先手を打って身柄を押さえておくというのは当然の思考だった。
「はい、私はマリアベル・レイナー。たいぷ――――」
はっとして少女は口をつぐんだ。
臣はというと、すんなり名乗られたことが驚きだった。はぐらかすか逃げるかすると思っていたのだが、まるで機械の応答のようにすらすらと教えられてしまった。
「あー、マリアベル・レイナーさんね。住所とかは……さすがに言えるわけないか。女の子の住所聞くのもなんかおかしいし」
そういうことは大人がやってくれるだろう。あと自分にできることは、そういう大人に引き渡すことくらいだと臣は結論付けて立ち上がった。
「それで、これからどうすんの? このまま帰るってんなら俺も見なかったことにするし。誰かに用があるんなら職員室まで案内するし。えっと、マリアベルさん……いや、苗字が後ろにくるんだっけ? じゃあレイナーさんか」
「マリアで、いいですよ。そう呼ばれていますから」
そう言って、マリアも立ち上がる。
「愛称というのは重要だと思っています。名前というのは固体を識別するナンバーにすぎませんけど、愛称はそうではないですから。個人に対する人間の情というものが含まれている――――そういうものは非常に得がたくもあります。他者と自分をつなぐものが名前です、そこに情という曖昧なものを含めることで発生する感情というものを私は大切にしたい。だから、マリア、と」
「あ、ああ……そうなのか……」
淡々と語るその口調に若干異質なものを感じた臣は、そのときマリアに影をみた。まるで自分が情なんてものとは無縁であるかのような、名前以外に人間らしいものを持っていないかのようなマリア。一瞬だけ、人形のように整った顔が本物の人形に思えてしまって、臣は瞬きをする。
その網膜には、学校の屋上で倒れる一人の少女が映っていて――――
――――まるで目の前のマリアが、幽霊のように見えた。
ぞくりと身を震わせる臣。それを不思議そうに見るマリアが、問いかけてくる。
「どうかしましか? 気分がすぐれないんですか?」
「――ッ! い、いや、なんでもないんだ。ちょっとくらっときただけだから」
「病院へ行きます? あ、ここなら保健室がありますね」
「いやもうホント大丈夫だから! こんなにピンピンしてるから!」
豪快に腕を振りながらスクワットを始める臣。身体は大丈夫だが頭がおかしい人のようだった。
「って、俺のことはいいんだよ。そうだ、君のことなんだってば」
「え?」
「結局、何しに来たのさ。ちゃんとした用事があるんなら俺が案内するし、間違って入っちゃったんなら俺も何も言わないでおくから早く帰ったほうがいい。でないと――――」
――――雷が落ちるぞ。
そう忠告しようとした矢先、校庭に向けられたいくつものスピーカーが強烈なハウリングを撒き散らした。二人は思わず耳をふさぐ。頭蓋骨の中にアルミ箔を押し込まれたような不快感の中、臣にとって聞き覚えのある声が響き渡った。
『グラウンドで逢引きたぁ、なかなかいい度胸だ! 揃って今すぐ職員室に来い!』